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記事一覧

偉大なレコーディング・エンジニア&スタジオ経営者のストーリー・アルバム

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『ザ・コジモ・マタッサ・ストーリー』(PROPER BOX 129)

1950年代、ニューオリンズからいくつものR&B,R&Rの名曲が生み出されたが、その生みの親のひとりが当時ニューオリンズでスタジオを経営し、エンジニアでもあったコジモ・マタッサ。そのコジモが録音した数々のヒット曲、名曲をコンピレーションしたアルバム4枚組。
その曲目とミュージシャン名を見ただけで「いゃ〜、すごいなぁ」とため息が出た。

音楽があふれるニューオリンズで生まれ育ったコジモは、大学をドロップ・アウトしてブラブラしていたところ父親から「働くか軍隊に行け」と言われて、ジュークボックスやレコードを販売する仕事を始める。当時、ニューオリンズにはレコーディング・スタジオがなく、素晴らしいミュージシャンがたくさんいるのにみんなよその街にレコーディングに行っていた。そこで音楽になかなかいい耳をもっていたコジモは、「儲かるんとちゃうか」とスタジオを経営し始める。
その名がJ&Mスタジオ。最初はぱっとしなかったけれど、ロイ・ブラウンというブルーズ・シンガーがJ&Mで録音した"Good Rockin' Tonight"(タイトルが最高!)が1947年に大ヒットして、次第にスタジオの名前が知られていく。
その後、ファッツ・ドミノ、ロイド・ブライス、ギター・スリムなどJ&Mで録音したミュージシャンが次々にヒットを出して、50年代半ばにリトル・リチャードが放った数々のR&RによってニューオリンズのJ&Mスタジオとエンジニアのゴシモ・マタッサの名前は決定的に知られることになる。そして、インペリアル、アトランティック、スペシャルティなど全米のレコード会社がJ&Mスタジオでの録音を求めて来た。
この初中期にニューオリンズ・サウンドのプロデューサーとして腕をふるい、ミュージシャンとレコード会社の間に立って交渉もしたのがディヴ・バーソロミュー(のちにその役割を受け継いだのが現在もニューオリンズのプロデューサーとして活躍しているアラン・トゥーサン)。
50年代のニューオリンズ・サウンドの栄光というのは、コジモ・マタッサ(エンジニア)+ディヴ・バーソロミュー(プロデューサー)のふたりと、アール・パーマー、リー・アレン、フランク・フィールズなどニューオリンズの優れたミュージシャンたちによって作られていった。
J&Mはのちに移転してコジモ・スタジオと名前を変えたが、コジモはレコーディングに関して創意工夫し、R&BやR&Rの斬新なサウンドの誕生に大きな功績を残し、その名前は海を越えて海外にまで知られるようになった。
コジモは業界から引退したもののまだ健在で、このアルバムのブックレットにも好々爺となった彼の最近の写真が収められている。

このコジモからヒットを出して世に出たミュージシャンの名前をざっと挙げてみよう。ファッツ・ドミノ、ギター・スリム、リトル・リチャード、シャリー&リー、ロイド・プライス、スマイリー・ルイス、プロフェッサー・ロングヘア、アール・キング、アート・ネヴィル・・・と、歴史に名前の残るミュージシャンばかりだ。
新しい音楽が生まれ、育っていく輝かしい録音の日々がこの4枚に収められている。
そして、製作するお金だけではなく、ミュージシャンとプロデューサーとレコーディング・エンジニアの才能と努力と工夫なくして名曲は生まれないし、ヒットもしないという見本のような『ザ・コジモ・マタッサ・ストーリー』でした。お薦めのコンピレーションです。プレゼントしてくれたニューオリンズの山岸潤史に感謝。

ジャケット写真とコジモさんの写真と、もうひとつなぜかリトル・リチャードがブランコに乗ってる写真(やはりおネエ系のムードがどことなく漂ったイカシた1枚)です。

秋晴れの午後にブルーズからレゲエへ〜Feelin' Good

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"JUMPING THE SHUFFLE BLUES/JAMAICAN SOUND SYSTEM CLASSICS 1946-1960"(FANTASTIC VOYAGE FVTD087)

"This Is Reggae Music"(Island Records 9237 9251)

僕はジャマイカの音楽についてあまり詳しくはないのだが、このアルバム"JUMPING THE SHUFFLE BLUES/JAMAICAN SOUND SYSTEM CLASSICS 1946-1960"はスカやロックステディ、そしてレゲエといったジャマイカの音楽の誕生に影響を与えたアメリカのブルーズ、リズム&ブルーズのコンピレーションだ。アルバムの解説にはジャマイカのサウンド・システムの始まりと発展、アメリカ南部のラジオから流れてくる音楽の影響、ジャマイカのレコード会社の始まり、そしてスカの誕生などが書いてあり勉強させてもらった。
僕がこのアルバムを手にしたのはメイン・タイトルが"JUMPING THE SHUFFLE BLUES"だったからだが、下の方に"JAMAICAN SOUND SYSTEM CLASSICS 1946-1960"というのがまた興味をそそった。というのも、ボブ・マーリーやジミー・クリフなどのレゲエが流行り始めた70年代初中期、もちろん僕はブルーズ、リズム&ブルーズをはじめとするブラック・ミュージックにどっぷり浸かっていたのだが、何故かレゲエはすんなり体に入ってきた。まずリズムにまったく違和感がなかったことがいちばんだった。もちろん、歌詞やメロディの素晴らしさもあったし、ソウル・ミュージック的なコーラスの付け方も好きになった理由のひとつだ。

先日もレゲエに超詳しいウッチー(内田直之)と話していたら、ブルーズのシャッフルの裏のビートを極端に強調することからスカのリズムが生まれたことが話題になった。でも、スカのテンポが踊るのに早くて暑いジャマイカではみんなしんどくなって、ゆったりしたレゲエのビートに移っていったというのは面白かった。今度、ウッチーとブルーズとレゲエの関係性をゆっくり話したいと思っている。

余談だが、結局、僕にとってレゲエはボブ・マーリーに尽きる。シンガー・ソングライターとしてもパフォーマーとしても、そしてミュージシャンの姿勢としてもレゲエの中では彼がいちばん。そして、心に残っている1979年の来日コンサート。過去聴いたコンサートのベスト5に入るとんでもなく素晴らしいライヴだった。そして素晴らしい体験だった。
それからいろいろ聴いてみたけれど、レゲエはダンスホール・レゲエになったあたりからはほとんど聴かなくなってしまった(かなり昔だが)。
そう言えば、何年か前に某レコード店のプロモーション・テレビの横にレゲエ・ダンスってキャプションがあったので、いまのレゲエはどんなんだろう・・・と思って見てみたら、ムチムチのお姉ちゃんがセクシーダンスをエロっぽく踊っているだけのことで、流れてくる音楽にも私の思うレゲエなんぞカケラもなくバカにされたみたいですごくむかついた。

この"JUMPING THE SHUFFLE BLUES"はアメリカの1950年代を中心としたブラック・ミュージックのコンピだが、この編集がなかなかに秀逸。ジャンプ・ブルーズからファンキーそしてスウィートR&Bまでジャマイカンはセンスがいい。CD3枚組全85曲。ロウエル・ファルソン、ロスコー・ゴードン、ファッツ・ドミノ、シャリー&リー、ジョニー・エース、スマイリー・ルイス、デイヴ・バーソロミュー、T.ボーン・ウォーカー、B.B.KIng・・・・・・etc。見つけたらゲットのお薦めアルバムです。

それで久しぶりに懐かしいレゲエ・レコード盤を引っ張り出して聴いてみた。1974年リリースのレゲエ・コピレーション"This Is Reggae Music"(アイランド・レコード)。「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」がまだ「ザ・ウェイラーズ」の頃で"I Shot The Sheriff"はやっぱり衝撃的だった。ヘプトーンズやメイタルズも好きだったなぁ。素朴な中にスウィートさがあり、でも歌っていることはハード。
秋晴れの午後にブルーズからレゲエへ〜気持ちいい・・・

いまも変わらず素晴らしいビル・ウィザース

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Still Bill/Bill Withers(docuramafilms DVD)

涙ものの映像だった。80年代半ばからミュージック・シーンの表舞台からほぼ引退しているようなビル・ウィザースのDVDだ。なかなか日本で入手できなかったので、先日日本に帰ってきた山岸におみやげに持ってきてもらった。

素晴らしいシンガー&ソングライターであるビル・ウィザースを知ったのは、初めてアメリカへ行った70年代半ばだった。ラジオからクール&ザ・ギャングやオージェイズに混じって、彼の"Lean On Me"や"Use Me"が時折流れてきた。ストレートで飾り気のない実直な歌声は、きらびやかな曲が続くソウル・ステーションの中でやたら心に残った。曲も詞も歌もサウンドも大袈裟なところがひとつもなく、ゴスペルやブルーズのシンプルさをどこかに持った私好みのものだった。
そして、ロスのレコード店で見つけたのが彼のカーネギー・ホールでの2枚組ライヴ盤"AT CARNEGIE HALL"だった。このアルバムは私の愛聴盤の中の愛聴盤だ。ほとんど持っている彼のアルバムの中でもいちばん好きなアルバムであり、たくさんある好きなライヴ盤の中でも5本指に入るライヴの1枚だ。ドラムのジェイムズ・ギャドソン、ベースのメルヴィン・ダンロップはじめビル・ウィザースのバックを務めるのにふさわしいクールで、グルーヴィな理解者たちに支えられてビルの歌が聴く人の心の芯にまで染み入ってくる。アルバム・ジャケットを見ると、カーネギー・ホールという大きなホールにも係らず、楽器を置いただけの簡素なステージの様子が写っている。それがすでにビル・ウィザースという人を物語っている。ステージ衣装もきらびやかなという言葉からは遠いものだ。それも彼が表現したい音楽と一致している。

思い返してみれば、日々の生活や家族や友達、そして弱者へのおもいやりを歌った彼の歌は、このDVDの中で語られる「音楽がすべてじゃないんだ」という彼の言葉と繋がっている。音楽と同じように大切なことはたくさんある・・・そう、私も思う。
元々、工場労働者だった彼が慎ましい暮らしの中から、普通の人間の視点で作ったのが彼の音楽だった。デビューが32才。最初は自分で歌うつもりではなく、誰かに歌ってもらおうとソング・ライターを目指していたという話から、派手な表舞台も元々は苦手だったのだろう。
そして、70年代の終わり頃から、ショー・ビジネスの中で強いられる自分らしくないことに彼は耐えられなかったし、逆に彼が要求していることをショー・ビジネス側は受け入れなかった。彼のような才能にあふれた人でも自分の思うようにはできないのかと少し驚いた。でも、彼は音楽を捨てたわけではなく、音楽を志している娘の録音をサポートしながら、その娘の歌声に涙してしまう。その涙は娘への想いと同時に音楽への想いだろう。
そして、子供の頃吃りだった彼は吃りの子供たちの歌声に心を揺さぶられてラウル・ミドンと録音を始める。
彼は自分の日々の暮らしの中で、そうやって音楽を続けている。
当たり前のことだが、華やかな場所にあるものだけが音楽ではない。 
華やかな場所から発せられた音楽ばかりが自分たちのところに否応なく届くような音楽シーンのシステムだが、そうではない場所で素晴らしい音楽を続けている人もたくさんいる。
ビル・ウィザースからもそういう場所からの音楽を届けてもらった気がする。

最後に晩年のコーネル・デュプリーのステージに上がり、"Grandma's Hands"を歌うシーンがある。
声は少しも衰えていなかった。変わらず誠実で温かい歌声・・・・・・いい曲・・・・涙。
彼の新しい曲を、新しいアルバムを待ちたいと思う。

是非このDVDを日本盤で出してもらってたくさんの人に観てもらいたい。

帯に短し、たすきに長し

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中古レコード屋巡りをしていて日本盤のブルーズ・アナログ・レコードを意図的に買う時がある。それは中に入っているライナー/解説がアルバムを聴く参考になることも多いし、以後アルバムを買う目安になる時もあるからだ(そうでない解説も多々あるが)。ちなみに歌詞カードは時折めちゃくちゃなのがあるのでご注意。
しかし、日本盤の左端についている帯(オビ)が僕は嫌いだ。買ったらすぐ捨てることにしている。あの帯がアルバム・ジャケットのデザインを台無しにしている。写真家やデザイナーの方がせっかく作ったジャケットをまるでぶちこわすかのようなあの帯。
ちなみに中古盤屋に売る時には帯がついている方が買い取り価格は高い。しかし、売ることを考えてアルバムを買うことは僕にはない。
写真を見ていただければわかるように帯がうざい。帯を取るとすっきり。中には帯を捨てないできれいに取って置いて売る時に再び付ける人もいるようだ。
帯があるのは日本だけなのだろうか。少なくともアメリカやイギリス盤では見たことがない。日本のレコード会社に言わせると帯は買うための目安となり、それで販売が促進されるそうだ。う〜ん、アルバムを買ってもらう立場としてはそう言われると仕方ないのかな・・・と思うが、アルバムジャケットも含めてひとつの作品だと考える僕は美的にどうも許せない。
先日、偶然見つけた映画「クロスロード」(1987年公開)のサントラ・アナログ日本盤。帯のキャッチを考えた方には申し訳ないが帯を捨てさせてもらった。やっぱりない方がいい。
これはライ・クーダーが音楽担当したなかなか面白い映画だった。しかし、ラストあたりで主人公の少年とスティーヴ・ヴァイのギター・バトルのシーンが出てくるのだが、それってブルーズ・バトルじゃなくてただのハードロック・ギターバトルだろうとイラついたのを覚えている。なんでステーヴ・ヴァイだったのか・・・アメリカには素晴らしいブルーズ・ギタリストたくさんいるのに。映画の観客動員を考えてヴァイになったのか・・・客が倍、倍、倍・・・。
でも、このサントラ盤にはライ・クーダーはじめ、ハーモニカのフランク・フロスト(我btbが演っているインスト"My Back Scratcher"のオリジナル・プレイヤー)、やはりハーモニカのサニー・テリー、ドラムにジム・ケルトナー、コーラスにデリー・エヴァンスとボビー・キングなど素晴らしいメンバーが参加している。ライのアレンジがややオーヴァー・アレンジと感じる曲もあるが、でもレコード屋で見つけたらゲット!の一枚だ。
帯の話から結局アルバムの話になってしまった。
「帯に短し、たすきに長し」中途半端な話でした・・・。

中村とうようさんのこと

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先日、ミュージック・マガジンのインタビューを受けた。その内容は次号のマガジンで読んでいただくとして、ミュージック・マガジンと言えば初代の編集長中村とうようさんが7月21日に亡くなられた。そして、それが自死だったために音楽業界のたくさんの人たちにかなり大きなショックを与え、僕のところにもいくつか驚きのメールが届いた。

そして、その先日のインタビューの時に最新号のミュージック・マガジンをいただいた。帰途に着く電車の中でとうようさんが書いていた「とうようズ トーク」のページを真っ先に読んでみたら、最後に読者宛にお別れの言葉が少し書かれていた。最後の「とうようズ トーク」だった。
少しの文なのだが、とうようさんのことだけでなく、人間が老いていく、それもひとりで老いていく儚さが頭によぎって読んでいて落涙しそうになった。でも、とうようさんは「人生は楽しかったし、思い残すことはない」と、同情されることを嫌うかのようにきっぱりと書かれている。しかし、その「とうようズ トーク」の書き出しが6月に住んでおられたマンションの近くでひばりが鳴いている話だったので、そういう生命の輝きのようなことを感じておられたとうようさんが、その1ヶ月後くらいにマンションから飛び降りるという光景が目に浮かびまた胸がつまった。

1970年代初めにミュージック・マガジン(当時はニュー・ミュージック・マガジン)が創刊された。その創刊者であり長く編集長であったとうようさんの残された業績はあまりに大きい。ブルーズを積極的に日本に紹介されて、レコード会社にブルーズのレコード出す働きかけもなされ、ブルーズマンの日本公演招聘もされた。ブルーズのラジオ番組もされていたが、当時京都に住んでいた僕は聞けなくてくやしい思いをしていた。当時、とうようさんのそういう動きが日本にブルーズの種を蒔き、ブルーズ・ムーヴメントが広がっていくきっかけになった。
初めてとうようさんと話したのは1974年だったと思う。「ブルーズのすべて」というミュージック・マガジンの増刊号を作られるので取材を受けたのが最初だった。その前からとうようさんの文は読んでいて、ブルーズのアルバムを買う時のガイドにさせてもらっていた。その後、とうようさんの「B.B.キングは卑屈な芸人」発言があり、ブルーズを民族音楽としてしか捉えないかのようなとうようさんの姿勢に反発も抱いた。しかし、音楽と社会、政治の接点をその時々で捉えたとうようさんの鋭い文は、凡庸な音楽ライターの書いたものとは一線を画していた。ただ、その後とうようさんの興味がブルーズ、ロックからワールド・ミュージックはじめ多分野に移っていき、僕の興味外のところに行かれたので自然ととうようさんの文から遠ざかっていった。
でも、とうようさんの著書「大衆音楽の真実」や「雑音だらけのラブソング」など単行本は読んでいたし、マガジンも「とうようズ トーク」だけは本屋で立ち読みさせていただいていた。すみません。

思い返せば、75年にリリースされた「ウエストロード・ブルーズバンド」のデビュー・アルバム(僕にとってのデビュー・アルバム)のライナー・ノーツを書いてくださったのもとうようさんだった。
その後も外タレのコンサートの会場や楽屋で何度かお会いして話もさせていただいた。
最後にお会いしたのは・・・何年前だろうか。六本木の青山ブックセンターでばったりお会いしてお連れがいらっしゃったのでご挨拶だけした。その時は本を何冊か抱えられて、相変わらず眼光は鋭くお元気そうだった。

やはり70年代から音楽を始めた者にとって中村とうようさんの文と発言は折に触れて気になるものだった。時には気持ちがいいほど評論をバッサリと書かれて、時にはそれは違うんじゃないかなぁ・・と反発し、また自分が全然気づいていなかったことを問題提起されて考えたり・・・と、その文や発言に刺激されたのは確かだった。
最後の「とうようズ トーク」に「やれることはやり尽くした」と書かれていたが、日本でブルーズが知られていった時代を共に生きた者としては、もっと音楽について書いていただきたかった。残念です。
ご冥福をお祈りします。

追記-偶然、今朝聞いていたライトニン・ホプキンスの「ライトニン・ホプキンス/イン・ザ・ビギニン」(原題"Strums The Blues")のライナーも中村とうようさんだった。アルバムの編集もされている。1974年に東芝からリリースされた「ブルース名盤シリーズ」の1枚だ。この頃は本当にたくさんのブルース・アルバムが日本のレコード会社から争うようにリリースされていた。このシリーズのB.B.キングもジミー・リードもT.ボーンもずっと大切に聞いている。そして、ターン・テーブルに載せる度に何度も読んだとうようさんのライナーをまた読んでいる。これからも何度も読むのだろう。

『夏の日に聴く、余計に暑くなるクリスマス・ブルーズ』

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Blue Blue Christmas (P-Vine Records PCD-1619)
先日下北でゲットしたアルバム。発売当時買いそびれていたアルバムを中古盤800円でゲット。
P-Vineレコードがかなり前にリリースしたクリスマス・ブルーズコンピ・アルバム。
ちょっとセクシーな熟女風サンタさんだがジャケ買いではない。ちなみにこのジャケットとはほど遠く中身はコッテ、コッテのブルーズの数々。
ブルーズはじめ黒人音楽のクリスマス・アルバムというのを集めている僕にとっては嬉しい1枚。
集めていると言っても血眼になって探しているというわけではなく、なんとなく見つかれば買うみたいな感じで濃度の低いコレクトぶりだが、自分のレコード棚を見てみるとそこそこクリスマス・アルバムが収集されている。

このコンピ・アルバムなかなか優れもので、こんなブルーズマンのクリスマス・ソングがあったのかとひとり喜んでいる。
収録されている中ではチャールズ・ブラウンの「メリー・クリスマス・ベイビー」がダントツで有名な曲だ。
デトロイト・ジュニアの「クリスマス・ディ」は初めて聴いたが、「メリー・クリスマス!エブリバディ!」というかけ声で始まるアップ・テンポのファンキーなクリスマス・ソングで一気に体温が上がる。しかし、デトロイト・ジュニアいう芸名がきょ〜りょくやな。言ってみれば東京ジュニア、名古屋ジュニアみたいなもんやからなぁ。
膝の上にギターを横にしてスライド・ギターをするブラック・エースさんの「クリスマス タイム ブルーズ」なんていうのも入っている。そう言えば、エースさんは自分のアルバムで「サンタクロース・ブルーズ」という曲も歌っていた。この人はクリスマス・ソング好きか? you tubeの映像(http://www.youtube.com/watch?v=qck-s79efuw)でエースさんが嫁はんと子供の前でブルーズを歌っているのがあったが(子供は退屈そうな顔してるし、嫁はんもつき合わされてる感が出てる)、クリスマスになったらあんな感じでこのクリスマス・ブルーズを家族の前でスライド弾きながら歌うのだろうか。
あとはクール・パパ・スミスなんて全然知らない人も入ってる。ちょっとチープなかっこ良さの芸名がええ感じです。
ウォルター・ディヴィス、ホップ・ウィルソン、ジミー・マグリィフなどのクリスマス・ソングも収録されている。
しかし、やっぱりおもろいのは何と言うてもライトニンの「メリー・クリスマス」。のっけからペケペケのいつものギターの音で別に「メリー・クリスマス」という歌詞以外はいつものライトニン。しかも飲んで録音してるのか"Merry Christmas〜"の最初から発音がヨレてるし、テキサスでなまってるしめっちゃおかしい。やっぱライトニンはいい。ライトニンはひとつの偉大な解放だ。

収録曲の内容はブルーズだけに「クリスマスなのに彼女がいない、金がない」というのが多い。「なんかプレゼントもってきてくれ、サンタさん」みたいなのもある。
解説で日暮泰文さんも書いているが、黒人にとっての(とくにブルーズマンにとって)クリスマスっていうのはやはり一般的な白人のクリスマスと違うのだろう。サニーボーイの「クリスマスなんでキリスト教に近づこうとお祈りするんだけど、悪魔がジャマするんだな。だからクリスマスも一日中酒を飲みっぱなしってわけよ」という「サニーボーイズ・クリスマスブルーズ」という曲が、黒人ブルーズマンの感情をよく表してるようだ。これもサニーボーイらしい大好きな曲だ。チャールズ・ブラウンの「メリー・クリスマス・ベイビー」にも、「クリスマスだからオレは今朝は飲んでないよ」という歌詞が出てくるが、結局この方たちは普段朝から飲んでるわけやね。
とにかく、おもろいアルバムです。
クリスマス・ソングと言っても結局ブルーズですらかね。念のため。

やっと読み終えたキース自伝「Life」

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キース・リチャーズ自伝「Life」(棚橋志行訳 楓書店)
かなり分厚い本で、キースの話をたっぷり楽しませてもらった。
キースの波瀾万丈の人生を書くにはもっともっとページが必要だったかも知れないけど。
子供の頃の話から現在に至るまで、音楽の話だけでなく女性関係からドラッグ話まで赤裸々に書かれているけれど、ブルーズ好きの自分としてはストーンズ結成頃、60年代初中期のイギリスの音楽、ブルーズ状況の話がいちばん面白かった。
ストーンズというバンドを結成していく話や、ブルーズ好きのミュージシャンが磁石に引き寄せられるように集まってくる話は、70年代初期の自分の周りで起こったことも想い出させてくれた。

キースは音楽をやる上でバンドの大切さを説いている。やはり、彼は自分の信じるサウンドとグルーヴを作ることに心血を注いできた男であり、ギターだけうまくなりたいと思っている人間ではない。そして、いいバンド・サウンドを作ることが自分自身をいちばん表現できる方法だということに早くから気づいたところが賢い。
だから、当然キースはローリング・ストーンズというバンドをすごく大切にしている。命かけてきたと言っても大袈裟ではないと思う。
そこがキースのいちばんブレてないところで僕から見るといちばんかっこいいところだ。

だから、途中からあれやこれやとブレていくミックに腹立たしく思い始めた気持ちはよくわかる。
でも、ミックにはミックの言い分はあるんだろうけどね。
だけど、ストーンズが初来日する前にミックがソロ・ツアーで来た時のミックってつまらなかったなぁ・・・。ストーンズの曲をやればやるほどシラケた。「歌ってるのは確かにオマエだけど、バンド・サウンドもグルーヴも違うのにストーンズの曲やったってカラオケで歌ってるみたいなもんだよ、ミック!」って言いたかった。

いろいろ紆余曲折を経て、それでも同じステージ立つ相棒としてはふたりは認め合っているから何十年もいっしょにやってきたわけだ。
元々、生まれも育ちも経験も趣味趣向も違う人間同士が集まってバンドをつくるわけだから、すべてが合うわけがないのであまり重箱の隅をつっつかないことだな。

僕の好きなブライアン・ジョーンズのことも途中からストーンズの足手まといみたいになったように書いてあったが(確かにそうなんだけど・・)、ブルーズバンドのアンサンブルとかふたつのギターの絡め方はブライアンがキースに教えたはずで、そのあたりのことをもうちょっと書いてほしかったな。声を大きくして言いたいが、ブライアンは相当な才人で、ことブルーズに関する見識と腕前は当時のイギリスではダントツだったと思う。

しかし、ストーンズほどのビッグな化け物バンドになるとアルバム一枚作るのも、ツアーひとつやるのも大変で、自分がスターであることを楽しめないとああいうバンドはやれないのだと思った。
僕はブライアン・ジョーンズがいた初期とミック・テイラーが在籍した頃が好きなのだが、途中で突然辞めてしまうミック・テイラーもストーンズというモンスター・バンドにいることに疲れたのではないだろうか。ベースのビル・ワイマンは「飛行機に乗るのがもうイヤだ」と言ってやめたそうだ。そう思うと、キースやミックという人は相当強靭な神経の持ち主なんだろう。
「メイン・ストリートのならず者」を録音していた時は、キースのフランスの邸宅(この邸宅で録音していた)にどんどん訳の分からないファンやらグルーピーやらドラッグ運び屋が出入りしていたという話も出てくるが、自分だったらとても耐えられない。
元々は黒人のブルーズをイギリスに広めたいと思っていただけのグループが、ヒット・メイカーになってビッグになりスタジアムでしか演奏できないバンドになってしまう。大きな成功の傍らで失ったものもあるのだと思う。でも、その失ったものにたくさんの気持ちが削がれるようではロックンロール・スターにはなれないんだろう。

そういう自分が置かれているそういう特殊な状況で音楽に集中するためにドラッグが必要だったのだろうが、途中でずっと続くドラッグの話にやや辟易した。「うん、キース、もうドラッグの話はいいから音楽の話をして・・・・」と何度か言いたくなった。

ストーンズ・ファン、キース・ファンにはたまらなく面白い1冊。夏休みにキースの好きなジャック・ダニエルのハイ・ボールでも飲みながら読むのにいいかも知れない。

次はチャーリー・ワッツの自伝が読みたいなぁ。チャーリーから見たストーンズって面白そうだ。

音放浪記/おっと!見つけた!Annisteen Allen嬢

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FUJIYAMA MAMA/Annisteen Allen(ReV-OlA CR BAND8)

7月某日、下北沢の中古レコード店のブルーズ・コーナーにてアニスティーン・アレンのコンピ"FUJIYAMA MAMA"を発見!即購入!
この日はホップ・ウィルソン、インペリアルのコンピ、ボ・カーターなどなかなか収穫の多い中古盤探索だった。
さて、タイトル曲の"FUJIYAMA MAMA"はブルーズ・ザ・ブッチャーとシーナ&鮎川君の先頃のライヴでシーナが歌っていた曲。
僕は鮎川君が作ってくれた音源とyou tubeでしか聴いたことがなかったのだが、とうとうアルバムをゲットした。しかも1000円だ。28曲も入っている。まあ、曲数が多ければよいというものでもないが、この28曲がすべて素晴らしい!
40年代半ばからラッキー・ミリンダー楽団の歌手として活躍を始めたアニスティーン・アレンはカテゴリーに分けるとジャンプ・ブルーズ・シンガーということになるのだろうが、R&Bシンガーとしてもジャズ・シンガーとしても通用する深みのあるシンガーだ。ほぼ同時代のダイナ・ワシントンやルース・ブラウン的な匂いもあり、まさに私好み。
アップテンポからスローまでどれも魅力的で、とくにスローの時の少し力が抜けた時の歌声が艶っぽい。
基本的に骨太のシンガーだが、がなるようなところがなくパワフルになっても荒れた声にならないところがいい。
と、まあ大絶賛なわけで買った日から毎日聴いている。

ところでタイトル曲の"FUJIYAMA MAMA"だが、歌詞をちゃんと聴いてみてちょっと驚いた。
「わたしゃ、広島、長崎でやったのと同じ様にあんたを吹き飛ばせるのよ。そうよ、わたしゃフジヤマ・ママ。わたしが爆発したら誰にも止められないからね・・・」と、広島、長崎の原爆投下がベースになっている歌詞だった。
これをオリジナルのアニスティーン・アレンよりヒットさせたのは白人の女性歌手ワンダ・ジャクソン。
僕はよく知らないのですが、このワンダ・ジャクソンはロカビリーの女王という呼び名もあり、かなり有名らしい。そして、上に書いたような歌詞にもかかわらず被爆した日本でもヒットしてシングル盤も発売されてワンダさんは来日もしている。来日時にこの曲を歌ったかどうかは定かではない。当時の日本の歌手によるカヴァーもリリースされたらしい。you tubeでは細野晴臣氏がカヴァーしている映像があった。
私見では戦勝国アメリカでは日本をやっつけたという気持ちもどこかにあってのヒットだと思われる。
作詞した人は「私はめっちゃ強い女なのよ」という意味あいを出すために広島、長崎・・・と言う歌詞を出したのかも知れないし、メロディもグルーヴもいいので・・・う〜ん、でもなぁ、頭の堅い僕にはまったく抵抗がない・・とは言えないかな。

でも、このアニスティーン・アレンのアルバムは見つけたら迷わずゲット!

「愛はどこにでも見つけられる(ギターにさえ)」

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Albert Collins/Love Can Be Found Anywhere(even in a guitar)     (Imperial Lp-12428)
このアルバート・コリンズのアルバムには過去中古盤屋で何度か遭遇してきた。気にはなっていたが、その度に「これって、コリンズの決定盤というほどのアルバムでもないしなぁ・・・・・・まっ、いいか」とパスしてきた。
しかし、この日はあまり欲しいアルバムがなくて先のグラント・グリーンのアルバムだけをゲットしていた。そこにこのアルバムが現れた。
値段をみると2500円。別に高額ではないのだが、普段ほとんどの中古盤を2000円以下でゲットしている自分にとってはやや高い。ちなみに先のグリーンのアルバムは800円だ。普段、酒にムダ金を使っているくせにこんな時にSave Moneyの気持ちが湧いてくる。
でも、「よし!今日は買うか!」と「清水の舞台」から飛び降りた。あまりに低すぎる「「清水の舞台」だが・・・・。
これもアナログ盤だが、60年代ウエストコーストの白人ブルーズバンド「キャンドヒート」のヴォーカル、あのおデブのボブ・ハイトがジャケット裏のライナーを書いている。
実はこのアルバム、そのボブ・ハイトがコリンズさんのプレイに惚れ込みインペリアル・レコードに売り込んだらしい。
全体的にファンク・テイストなのだが、先のグラント・グリーンに比べると「イナたい」。バックもイナたいがやはりテキサスから直送のブルーズマンであるコリンズのギターは、キレもコクもあるが・・・イナたい。でも、イナたい・ファンク・ブルーズ大集合みたいなアルバムでとても好感がもてる。
たぶん、ウエスト・コーストのヒッピー風の兄ちゃんがラリパッパで描いたであろうサイケ風のジャケットもGOODだ。
アルバム・タイトルもラヴ&ピースの当時の流れで「愛はどこにでも見つけられる(ギターにさえ)」だ。

「いまも古くない骨太のクロス・オーヴァー」

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Grant Green/Blue Breakbeats(Blue Note B1 7243 4 94705 1 4)

6月の初めにゲットしたアルバム。
中古レコード屋のブルーズのコーナーにまぎれ込んでいたジャズ・ファンクのギタリスト、グラント・グリーンのアルバム。アナログ・レコード盤。
まずタイトル"Blue Breakbeats"からして惹かれる。
70年代初頭のグリーンのアルバムから抜粋したコンピレーション・アルバムだが、やっはりこの時期、クロス・オーヴァーといわれた時代のこの手の音楽はいい。
その後、フュージョンになっていくと僕はこういう音楽から離れていくのだが、この時代の良質のクロス・オーヴァーはグルーヴが骨太で、インプロヴィゼーションのやりとりが巧みで、小賢しいセクションがなくていい。個々のソロが歌っていて歌がないけれど歌手の僕でも聴いていて飽きない。
参加メンバーもIdris Muhammad(dr) Chuck Rainey(b)Ronnie Foster(organ) Jimmy Lewis(b) Cornell Dupree(g) Gordon Edwards(b)Grady Tate(dr)・・・・・と、素晴らしい名手ばかり。
サンプリングもたくさんされているグラント・グリーンなのでそちらで「あっ、聴いたことある」と言う人も多いと思う。

グラント・グリーンは亡き塩次伸二が大好きなギタリストだった。

ちょうど初めてアメリカへ行った頃、クロス・オーヴァーのブームが起こり始めていろんなクラブでこういう強者たちのライヴを聴いた。マルガリータ飲みながら・・・・。
久しぶりにCTIレーベルを聴いてみようか。