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小さな一歩

September 23,2011 四谷「ブルーヒート」にてKOTEZくんとデュオ。
昔、亡き本田竹広さんと飲んでいる時に、本田さんがピアノとエレクトリック・ピアノは並んでいる音は同じでも弾く感触においてはまったく違う楽器だと言われたことがあった。アコギ(アコースティック・ギター)を手に入れてから嬉しくて毎日弾いているのだが、ふとその本田さんの言葉を想い出した。当然のことだがアコギにはアコギの深い世界がありそう簡単には使いこなせはしない。絃に触る指の感触も違うし、エレキと同じように弾いても出る音色も違う。歌っている心持ちも変わってくる。
でも、どんな音がライヴで鳴るのか、とにかくライヴで弾かないと私の場合何も始まらないので意を決して今夜はアコギ1本でやってみた。
最初、緊張して久しぶりに変な汗が出た。エレキと違って音量も音質もどんな風に客席に聞こえているのかわからず少し不安なままライヴ開始。しかし、アコギだと自然とダウンホームになるので、少し経つと演奏最中の気持ちもゆったりしていきエレキでは味わえない快感を味わった。そして、やっていくうちにダウンホームでありながらも、アグレッシヴさも持ちたいと技もないのに贅沢なことを考えだした。"Slow Down"などいい感じでやれた曲もあったが、ライトニンもジョン・リーも遥かに遠い。
ともあれ、自分としては夢みるカントリー・ブルーズマンへ小さな一歩を踏み出した夜だった。

Music Magazine 2011年10月号

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この前、ミュージック・マガジン誌から受けたインタビューが10月号に掲載されているので機会があれば読んでみてください。中村とうようさんの追悼が特集というのもなにかの縁か・・・・。ミュージック・マガジン誌を久しぶりにじっくり読んでみたが、本当に世の中には僕の知らない音楽がたくさんある。

うれしい!

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先日、聖蹟桜ヶ丘でコンサートがあった際、ギターのシュウ(上村秀右)に「この前さ、大阪でアコギ買ったんだ。66年のギブソンなんだけど・・・」と言ったら、「ええっ!買ったんですか。見たいなぁ」というのでデジカメにあった写真を見せた。
すると、「あれっ?ホトケサン、これってJ.B.ルノアーが持っていたのと同じやつじゃないですか?」
「えっ?そうかなぁ・・・・そういえば、J.B.ルノアーがアメリカン・フォーク・ブルーズ・フェスティバルの時に持っていたのに似てるなぁ」
それで、その夜、家に帰りそそくさとyoutubeで映像を確認すると・・・・・・・・・同じだ・・・・。同じ。
夜中に鳥肌。
Voodooの縁か・・・・Mojoのおかげか・・・。
もうすぐリリースされる今回のアルバム・タイトルが、J.B.ルノアーの"Voodoo Music"だし、前のアルバム・タイトルがやはりルノアーの"Mojo Boogie"だっただけに何か因縁のようなものを感じる。
とにかく、うれしい。ものすごくうれしい。
偶然、思いも寄らず、大好きな、敬愛するJ.B.ルノアーと同じギターがゲットできたことがうれしい。

やはり、亡き塩次伸二が言ったように「ギターは出会いだ」

そして、これは心してギターに、ブルーズに精進しろという天からの命令だと思うことにした。

そして、このギターを見つけてくれた大阪の森くんに感謝。今度、居酒屋おごるからね。

うれしい。

Blues&Soul Records No.101

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現在発売中の新しいbsr(ブルーズ&ソウル レコーズno.101)誌にブルーズ・ザ・ブッチャーのフジ・ロックのレポートとニューアルバムの告知が出ています。読んでみてください。10月のアルバム・リリースに向けて着々と準備進行中。リリース・ツアーは11月から12月にかけて再び「過密スケジュール・ツアー」行います。乞うご期待!
bsr誌には亡きコーネル・デュプリーの貴重なインタビューも掲載されています。

Little Esther

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アコースティック・ギターを去年くらいから本格的に欲しいなと思っていたのだが、とうとう出会った。
「彼女」は1966年のアメリカ生まれだが日本には来たばかり。製品名はGibson LG-O
大阪のギタリスト森くんが「ホトケさん、なかなか器量のええ娘がいまっせ」とギターショップで見つけ教えてくれた。
最初に抱いた瞬間に僕の腕にぴったりで即決まり。小柄できれいなブラウン・シュガーだ。しかも、音がブルーズ。
それで大好きな女性シンガー、エスター・フィリップスの少女の頃の芸名をとって名前を「リトル・エスター」にした。
これでまた一歩、よりディープなブルーズへの道へ・・・・すごく嬉しい。

Nothing But The Blues

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Nothing But The Blues
昨日(8/18)の酷暑の中、JIROKICHIに来てくださったみなさん、ありがとう!いゃ〜、なんかすごくいい感じで自然に盛り上がって楽しかったですね。JIROKICHIのエンジニアのワオさんに「すごく良かったですね。思わずイェ〜って声が出ちゃいましたよ。ブルーズ・ザ・ブッチャーはやっぱりいいバンドですね」とお褒めいただいた。結成以来、ずっと音を聴いてもらっている人に誉められると正直、うれしい。ブルーズ・ザ・ブッチャーの4人だけでしかもホームのJIROKICHIでというのが、気持ちが落ち着いて本当にDown Homeな感じになっていいな。来月は8日(木)。毎月、毎月JIROKICHIでやっているけどこの積み重ねはバンドの大きな財産になっていくと思います。ああ、来月は新しい曲やりますよ!

来週は関西へひとり旅。8月27日は心斎橋のS.O.Raで4回目を迎える「永井ホトケ隆のブルーズ講座/大阪編」。私の生き方に徹底的な影響を与えた「ブルーズの王様B.B.キング」の特集です。映像、写真、CDなどを使ってB.Bの音楽性だけでなく、彼の人間的な魅力、内面性にまで迫りたいと思っている。私所有の秘蔵の映像も蔵出し!もちろん、森くんとB.Bの素晴らしい曲も演奏します。それで今日は朝からB.B.キングづくし。心が豊かになるブルーズ・・・・B.B.を聴くたびにそう思うのは、B.B.が心豊かな人だからです。自分がブルーズを歌う精神的な出発点になったB.B.だけどまだその背中も見えないかな。まだまだB.B.は遠い。

 『We Play The Blues For You,Mako.And We All Love You』-2011年8月5日&6日 永井ホトケ隆プロデュース2DAYS

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4月に急逝されたJIROKICHIのマスター荒井誠さんの追悼ライヴをやりたいので手伝ってもらえないかと、JIROKICHIのスタッフのタカから連絡をもらったのは5月の終わり頃でした。プロデュースというほどのことはできませんでしたが、2日間ともソウルド・アウトするほどたくさんのお客さんに来ていただき、また参加してくれたミュージシャンのみなさんには心のこもった演奏をしていただき本当に感謝の気持ちでいっぱいです。両日ともすごく盛り上がったファンキーな夜になりまして、楽しいことが大好きだったマスターはきっと天国で踊りながら聴いてくれたと思います。皆様、ありがとうございました。
常々言っていますが、1974年の開店当初から出演している自分にとって「JIROKICHI」はライヴハウスではなく、ライヴホームです。音楽だけでなく個人的にも、私にとっては心許せるホームでありつづけてきた店です。開店から40年近い歳月の中で、自分が何か新しいことを始めるときにまず最初にトライするのはいつも「JIROKICHI」からです。いまも必ず1ヶ月に一度はブルーズ・ザ・ブッチャーでJIROKICHIに出演しています。どんなにメンバーが忙しくてもなんとかスケジュールを合わせてJIROKICHIはやるぞとみんな思っています。
思えば「JIROKICHI」はいつの時代もスタッフが素晴らしい人たちばかりです。みんな、いい人で親切で優しい。JIROKICHIにいてイヤな思いをしたことがありません。それはマスターの人柄がそういう素晴らしいスタッフを自然と寄せつけたのだと思います。いろんなライヴがありましたが、どんな時でもいつも気持ちよく演奏させてもらっています。

JIROKICHIの音的な良さはやはりそのミュージシャンの生音が聴けることでしよう。JIROKICHIの音はPAから出てくる音だけでなく、生のダイレクトな音もかなり聞こえます。その割合を調合するミキサーのワオさんは素晴らしいエンジニアです。だから、JIROKICHIで「いい音だったよ」とお客さんに言われることはとても嬉しいことなのです。
そして、ここでいろんなミュージシャンに紹介され、交流をもつ機会を得ました。最初に出演した時の「ウエストロード・ブルーズバンド」のメンバーはもとより、亡き浅野祥之くんとも亡き大村憲司さんとも初めて音を交わしたのはJIROKICHIでした。ベースの岡沢章さんに自分で電話してセッションをお頼みしたのもJIROKICHIでした。ムッシュと初めてステージに立ったのもJIROKICHIでした。バーナード・パーディとセッションできたのもミッキー・ベイカーとやったのも、ニューオリンズのたくさんのミュージシャンとギグをしたのもJIROKICHIでした。
決して大きなお店ではありませんが、この40年ほぼ毎月JIROKICHIにずっと出演させてもらってきたことは私のかけがえのない宝です。それはどんな大きなホールやスタジアムに出るよりも私の誇りです。
荒井さんが亡くなられてしばらくして、ここに出演しているみんなが思ったのは「もう、JIROKICHIはなくなってしまうのだろうか・・」ということでした。
それは単にひとつのライヴハウスがなくなってしまうということだけでない、もっと大きな精神的な拠り所がなくなってしまうことを意味するからです。
そう思っているミュージシャン、そしてお客さんはたくさんいると思います。
私も心配でした。でも、大丈夫です!ワオさんとタカをはじめスタッフが一丸となってこれからも盛り上げて続けて行きます。

ここ数年、荒井さんが北海道に住むようになってからは会うたびに「ホトケ、JIROKICHIをよろしくな」と言われていました。
でも、私ができることは微々たることでみなさんの力がないとどうしょうもありません。
私がこんなことを言うのもおかしいかも知れませんが、「みなさん、JIROKICHIをどうぞ、これからも、よろしくお願いします!」
JIROKICHIのライヴはもちろんですが、JIROKICHIは夜の二時まで営業しています。仕事帰りに演奏後のJIROKICHIに寄って、カウンターに座りスタッフと音楽の話でもしながら酒を飲んで料理を食べるという時間の過ごし方も素敵かと思います。

そのカウンターに荒井さんがふらっと現れて賑やかに一緒に飲むことはもうないのか・・・・と思うと胸に想いが詰まります。
でも、「楽しくやろうよ」という荒井さんがよく言っていた言葉を忘れず、これからもみんなで楽しくやりましょう。

亡き荒井さんへの想いは語り尽くせないほどありますが、それはまたの機会に。

本当に2日間、ありがとうございました。
出演ミュージシャン:5日(金) 沼澤尚dr 中條卓b KOTEZbluesharp ムッシュかまやつvo.g 鮎川誠vo.g シーナvo 近藤房之助vo.g Leyona vo永井ホトケ隆vo.g
6日(土) 金子マリvo 松本照夫dr 森園勝敏g 石井為人key 北京一vo.etc 大西真b 吾妻光良vo.g 牧裕b 早崎詩生p 岡地曙裕dr 小出斉vo.g 小堀正b Leo vo 妹尾隆一郎bluesharp.vo 石川二三夫bluesharp vo永井ホトケ隆vo.g

                                                                                                                                        I Love My Sweet Home "JIROKICHI" 永井ホトケ隆

P.S.忘れてました・・・今月のJIROKICHIのブルーズ・ザ・ブッチャーは8月18日。みなさん、暑さを吹き飛ばしにVoodoo Musicで飲みに、踊りに・・どうぞ。

石巻復興Tシャツ

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石巻のズーズー・シスターズのミータンから以下のような復興支援のお願いのメールが来ました。
みなさんもご支援のほどよろしくお願いします。
「先日、友人から連絡がありまして、仲間が石巻の復興Tシャツ「負げねど(負けないぜ)」を作っているそうです。
石巻河北新報にも掲載されました。(添付あり)
『自分達が生まれ育った故郷の為に、何か役に立ちたい』という思いで立ち上がった“青空ロングビーチクラブ”という復興支援チームです。
町の復興の為、家族の為に懸命に生きた友の意思を引き継ぎ、故郷の「長浜」から名付けられました。
復興Tシャツは、一枚1500円で、売上の半分が石巻に直接寄付されます。
代理店として、石巻駅前北通りの“文房具ナリサワ”が取り扱っております。
ネット販売はこちらです[↓]
http://reishinomaki.shop-pro.jp
私も購入させていただきました。
色々とご支援をしていただいているにも関わらず、厚かましいお願いかもしれませんが、拡散または、ご支援のほどを宜しくお願い致します」

佐野〜いわき

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6/12(日)佐野 Bar Ken
お昼に石巻で川尻さんに用意していただいた昼食をいただいて、その後石巻のみんなに見送られて佐野に向かった。
佐野は盟友塩次伸二が心臓の発作に襲われて亡くなった街だ。その彼がライヴをやるはずだったお店"Bar Ken"に向かう。
佐野に着いた頃には少し雨が降り始めた。
伸ちゃんが倒れたホテルの前に来ると、あの日病院に運ばれたと連絡を受けてあわてて佐野に向かったことを想い出す。

雨の中、初めての佐野なのにたくさんの方に来ていただいた。
それにしてもめちゃ盛り上がりましたね。マスターからは「こんなにみんなが立ち上がって盛り上がったブルーズバンドは初めてです」と私たちにとっては最高の誉め言葉をもらった。
佐野のみなさん、また、行きます!Kenさん、よろしく!
この日は、以前Leyonaのマネージャーでいまは佐野で農業をやっている小山君も仲間を連れてきてくれた。
やはり原発の風評で被害を受けていたが、最近は元にもどりつつあるとのこと。終わってから久しぶりに一緒に飲めて楽しかった。また、飲みましょう!元気で。

6/13(月)いわき Bar Queen
Bar Queenのマスター加藤さんとは震災直後から何度か電話のやりとりをしていた。
いつも元気な加藤さんの声が、震災からは日によって元気がないように感じられたことが何度かあった。
今回のライヴも一度は中止にしょうかという話もあったが、加藤さんとお店の復帰が早く普段と変わらないようにやりましょうという加藤さんの提案でいつもどおりやることになった。
「でも、来てくださるお客さんは少ないですよ」と加藤さんは言われたが、ボクたちブルーズ・ザ・ブッチャーのメンバーはそんなこと関係なく加藤さんといわきの人たちに会いにいく気持ちだった。
お店に入っていくと「おはようございます!」というあの元気な加藤さんの声が聞こえた。

リハーサルが終わった頃にひとり青年が入ってきて、加藤さんが「おお、元気だったか」と何やら話し込んでいた。
あとから聞けば福島の原発で働いている青年だった。

そして、ホテルでテレビをつけると画面の上にテロップのように福島各地の放射線量が流れている。

そして、演奏後、残ったお客さんたち、加藤さん、お店のヒロミさんと飲みながら話したが、やはり原発のことはボクたちが思っているよりも遥かに重くいわきそして福島の人たちにのしかかっている。
避難区域として避難することを強制された方は自分の大好きなCDやレコードを置いたままだという。あんなビニール袋ひとつだけ渡されて必要な物を持って来いと言われて、一体何が持ってこれるというのだろう。はっきりしたデータも明確な方向性も示さないまま、避難という名目で住んでいたところから彼らを追い出している。何か目的があるのか。権力争いに迷走している政府や自己保身の東電が信用なんかできるわけがない。疑惑だらけだ。
放射線量はいわきや福島だけでない。東京でも風のむきによっては福島より多いときもあるという。福島の問題というわけではない。

今日(6/28)テレビを見ていたら、これから原発近くに住んでいた人たちの内部被爆量を量り始めるという。でも、その対象になっている人が「被爆しているってわかって、それでどうなるんだ」と言った。人間はその日その日を生きていかなければならない。仕事をして子供を育てなければならない。親の面倒もみなければいけない。食べて生きていかなければならない。たとえ、自分が内部被爆していたからと言ってそれをやめるわけにいかないだろうとその人は言いたかったのだ。その一言は重い。

ライヴはやはりお客さんは少なかったけど、そんなこと関係ない。みんなで踊って歌ってすごく楽しかった。
ひとり、おばあさんがいた。80才を過ぎておられる。ボクの母と同世代の方だ。その方は自分の家をなくしている。
人生を真面目に、ささやかに生きて来た人がいま80才を過ぎてすべてをなくしている。つらい。
Queenで夜中12時近く、少し酔っていた人が「ホテルへ帰るよ」と言って帰って行った。彼のいうホテルは避難所のことだ。そこに門限があるので帰ったのだった。
いわきの夜はホテルに帰っても眠れなかった。そのホテルに泊まっている人たちのほとんども原発関係で働くために全国から来ている。
遠くにいる人たちはテレビのニュースのひとつとしてしか実感はないかも知れないが、この狭い日本のいたるところにある原発のことを考えると福島のことは明日の自分たちのことだ。
ボクたちはいつもツアーをしていてこの日本という国の美しさをいろんなところで見ている。景色だけでなく、その土地のみなさんの美しい気持ちも知っている。その土地にある美味しいものも知っている。そのたくさんの美しさをすべて失ってしまうようなことをこれからも続けるのだろうか。

この夏、もし、あなたに夏休みがあったら東北へ行って欲しい。ボランティアでなくてもいい、旅行に行って欲しい。その土地のものを食べて飲んで、そしてそこに住む人たちと話しをして欲しい。

加藤さん、ヒロミさん、来てくださったみなさん、そして来たくても来れなかったみなさん、また会いましょう。
またいわきに行きます!いつでも呼んでください。
写真は加藤さん、ヒロミさんそして来て下さったお客さんです。

みーたんのメール

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先日6/11に石巻を訪ねた後に、ズーズー・シスターズのミータン(木村美恵子さん)からいただいたメールです。被災を受けたひとりとしての正直な気持ちが書かれているメールなのでここに紹介したいと思い、ご本人の承諾をいただきました。これ以前に彼女からは「瓦礫ばかりの町になってしまったけど、いつかまた故郷女川に戻ってきたい」というつらい胸の内を語ったメールもいただいてました。多分、彼女と同じ気持ちの方が東北にたくさんおられると思います。では、以下お読みください。写真は友達のアリコと歩いている時に偶然、自分の車を見つけたミータンです。車はダメになってしまったけど免許証や車検証、CD、お母さんの老眼鏡など残ってたものを持ち帰ったそうです。

『ホトケさん♪
先日は、有難うございました。
皆さんの演奏は、本当に楽しくて楽しくて3・11の事なんか忘れていました。
いまだに夢であって欲しいと思ってしまいます。
ラ・ストラーダ、ゼカナ、シャンブル、ズーズー、失った全てが歌っている時に一気に甦りました。

ライブ後の二次会は、当たり前の様にありましたが、今の被災地の現状では、難しいものだったと思います。
それもこれも皆さんが来ていただいた事と川尻さんの配慮によってなされた事にとても感謝致しました。

震災以来、戦争に行ったおじいさんの話しをよく思い出します。
小学生の私によく話してくれました。戦争の愚かさ。食べるものも飲み物もない、命の保証もない。

私達は、戦後を見たんだと思いました。
ただ、現代の復旧の早さは戦後にはないですね。
年齢的にリアルに戦争の体験談を聞く事もなくなっていく中、私達がこれを語りついでいかなけばいけないんだとも思います。
生命は地球を絶滅させない様になっているのかな〜?

フミト君は、災害後の町をそのまま残した方が良いと言っていました。
そうであってはいけないんですが、その気持ちは、よく分かります。
贅沢を続けた現代の残骸だからです。

明日、私達は、30年慣れ親しんだ女川を出ます。被災者の中ではない生活を始める事になります。
世間の言葉の節々に温度差を感じてしまう事がある現状、不安は多々あります。
実際、本当に出ていく事がいい事なのかは分かりません。
ただ、自立していく環境、色々踏まえて自分で出した結果です。
歩きださなければいけないのですね。

被災したお年寄り。これから老後をゆっくり自分の家で暮らすはずだったのを一瞬にして奪われてしまったショックははかりしれません。気持ちを考えると胸が痛んでどうしようもありません。
おそらく、母も同じです。女手ひとつで私達を育ててくれた母は、今でも強いです。
これからは、私達兄弟で支えていきます!
歳にふそくはないですからね。

母は、女川に戻りたい様な事を1度だけこぼしました。
それも踏まえて、今後頑張っていきたいと思います。

こういう被災地、被災者の言動をメッセージ性のあるホトケさんや皆様が、少しでも伝えていただける事が一番の願いです。

長々とすみません。
被災地は、まだまだこれからです。
今後とも宜しくお願い致します。』