先日、ミュージック・マガジンのインタビューを受けた。その内容は次号のマガジンで読んでいただくとして、ミュージック・マガジンと言えば初代の編集長中村とうようさんが7月21日に亡くなられた。そして、それが自死だったために音楽業界のたくさんの人たちにかなり大きなショックを与え、僕のところにもいくつか驚きのメールが届いた。
そして、その先日のインタビューの時に最新号のミュージック・マガジンをいただいた。帰途に着く電車の中でとうようさんが書いていた「とうようズ トーク」のページを真っ先に読んでみたら、最後に読者宛にお別れの言葉が少し書かれていた。最後の「とうようズ トーク」だった。
少しの文なのだが、とうようさんのことだけでなく、人間が老いていく、それもひとりで老いていく儚さが頭によぎって読んでいて落涙しそうになった。でも、とうようさんは「人生は楽しかったし、思い残すことはない」と、同情されることを嫌うかのようにきっぱりと書かれている。しかし、その「とうようズ トーク」の書き出しが6月に住んでおられたマンションの近くでひばりが鳴いている話だったので、そういう生命の輝きのようなことを感じておられたとうようさんが、その1ヶ月後くらいにマンションから飛び降りるという光景が目に浮かびまた胸がつまった。
1970年代初めにミュージック・マガジン(当時はニュー・ミュージック・マガジン)が創刊された。その創刊者であり長く編集長であったとうようさんの残された業績はあまりに大きい。ブルーズを積極的に日本に紹介されて、レコード会社にブルーズのレコード出す働きかけもなされ、ブルーズマンの日本公演招聘もされた。ブルーズのラジオ番組もされていたが、当時京都に住んでいた僕は聞けなくてくやしい思いをしていた。当時、とうようさんのそういう動きが日本にブルーズの種を蒔き、ブルーズ・ムーヴメントが広がっていくきっかけになった。
初めてとうようさんと話したのは1974年だったと思う。「ブルーズのすべて」というミュージック・マガジンの増刊号を作られるので取材を受けたのが最初だった。その前からとうようさんの文は読んでいて、ブルーズのアルバムを買う時のガイドにさせてもらっていた。その後、とうようさんの「B.B.キングは卑屈な芸人」発言があり、ブルーズを民族音楽としてしか捉えないかのようなとうようさんの姿勢に反発も抱いた。しかし、音楽と社会、政治の接点をその時々で捉えたとうようさんの鋭い文は、凡庸な音楽ライターの書いたものとは一線を画していた。ただ、その後とうようさんの興味がブルーズ、ロックからワールド・ミュージックはじめ多分野に移っていき、僕の興味外のところに行かれたので自然ととうようさんの文から遠ざかっていった。
でも、とうようさんの著書「大衆音楽の真実」や「雑音だらけのラブソング」など単行本は読んでいたし、マガジンも「とうようズ トーク」だけは本屋で立ち読みさせていただいていた。すみません。
思い返せば、75年にリリースされた「ウエストロード・ブルーズバンド」のデビュー・アルバム(僕にとってのデビュー・アルバム)のライナー・ノーツを書いてくださったのもとうようさんだった。
その後も外タレのコンサートの会場や楽屋で何度かお会いして話もさせていただいた。
最後にお会いしたのは・・・何年前だろうか。六本木の青山ブックセンターでばったりお会いしてお連れがいらっしゃったのでご挨拶だけした。その時は本を何冊か抱えられて、相変わらず眼光は鋭くお元気そうだった。
やはり70年代から音楽を始めた者にとって中村とうようさんの文と発言は折に触れて気になるものだった。時には気持ちがいいほど評論をバッサリと書かれて、時にはそれは違うんじゃないかなぁ・・と反発し、また自分が全然気づいていなかったことを問題提起されて考えたり・・・と、その文や発言に刺激されたのは確かだった。
最後の「とうようズ トーク」に「やれることはやり尽くした」と書かれていたが、日本でブルーズが知られていった時代を共に生きた者としては、もっと音楽について書いていただきたかった。残念です。
ご冥福をお祈りします。
追記-偶然、今朝聞いていたライトニン・ホプキンスの「ライトニン・ホプキンス/イン・ザ・ビギニン」(原題"Strums The Blues")のライナーも中村とうようさんだった。アルバムの編集もされている。1974年に東芝からリリースされた「ブルース名盤シリーズ」の1枚だ。この頃は本当にたくさんのブルース・アルバムが日本のレコード会社から争うようにリリースされていた。このシリーズのB.B.キングもジミー・リードもT.ボーンもずっと大切に聞いている。そして、ターン・テーブルに載せる度に何度も読んだとうようさんのライナーをまた読んでいる。これからも何度も読むのだろう。