ディランの新譜は下手をするとただの陳腐なスタンダードのカバー・アルバムになりかねない類のものだ。
いや実際、ロック・シンガーやポップ・シンガーが歌ったその手のつまらないテイクを、そしてアルバムをいくつも知っている。しかし、ディランのこのアルバムの瑞々しさはなんだろう。
ディランは「これらの曲はカヴァーされ過ぎて本質が埋もれてしまった曲たちだ。私はそのカヴァーを外す作業をしたんだ」と語っている。
つまり、元々その曲にある素晴らしさが、つまらないカヴァーをされ過ぎてその曲の良さが聴こえなくなってしまっていることはジャズだけでなく、ソウルでもブルーズでもロックでもよくある。本当は素晴らしい曲なのに・・・。
過剰なアレンジ、加えられた余計なサウンド、リズムを変えたことで失われる原曲のグルーヴやムードなど・・・それらはたぶん新しいものを付け加えようとした時にすでに始まっている。アレンジなどということが最初に頭をよぎるからだと思う。
歌に関して言えば、フェイクして原曲のメロディを壊してしまうこともそうだ。
はっきり言うとカヴァーは難しい。
素晴らしい曲というのは、その曲にすでに出来上がった素晴らしいものが詰まっており、それを変質させたり取り除いたり付け加えたりすることは無理なのだ。つまりすでに素晴らしいから歌ってみたい、演奏してみたいと思うわけだから。もし、原曲と違うテイストが加わって良くなっているとしたら、それは歳月をかけてその曲を歌いつづけた結果として自然に変化したものだ。アレンジではない。その曲を愛おしみ続けたから生まれてくるものだ。
バンドのメンバーと一緒にほとんどテイク1か2で録ったというディランの歌が生きている。ディランの心情に演奏が寄り添っていく。そして、曲の良さが歌詞の素晴らしさがその何気ない演奏と歌で蘇ってくる。知っている曲も知らない曲もあるが、スタンダードとして残ってきた曲の美しい本質を聴かせてくれている。そこには幼い頃から様々な音楽をまっすぐに聴いてきたディランの確かな耳がある。ここにあるすべての曲はロマンティックで、優しくて、哀しくて、美しい。いつの時代にも私達の心に大切なものが、これらのスタンダード曲にあることをディランは伝えたかったんだと思う。
「枯葉」がこんなにいい歌だったとは・・・。
ディランはまるで自分の家の居間で歌っているようだ。
「Full Moon and Empty Arms」はシナトラ・バージョンも聴きたくなってきた。
最後の「That Lucky Old Sun」映画が終わるようにたくさんの余韻を残して終わった。
いい歌手とは声が何オクターブでるとか技巧があるからとか声そのものがいいからとかではなく、その歌をどれくらい深く理解し、愛しているかだ。そう人間を愛するように。
かってカエルのような声と言われたディランの歌声に包まれる幸せを僕はいま感じている。ディランの歌への深い愛を感じている。