1ヶ月ほど経ってしまったがジョン・リ−・フッカーが6/21に亡くなった。享年84才
。死因は老衰ということだから安らかに永久の眠りについたのだろう。晩年はサン
フランシスコに家をもちマイ・ペースでライヴ活動をするという悠々自適の日々だ
った。そういう余裕のある生活ができたのも89年にサンタナ、ロバート・クレイ、
ボニー・レイットたちゲストの助けを得たアルバム"The Healer"が好セールスとな
り、次作のアルバム"Mr.Lucky"がグラミー賞を受け第一線に復帰できたからだろう
。"Mr.Lucky"でもヴァン・モリソン、キース・リチャーズ、ライ・クーダーなど豪
華ゲストの支えがあった。しかし、これらのゲストたちは自分たちがジョン・リ−
から受けた音楽的恩恵の大きさを知っていたし、ジョン・リ−とともに音を作る喜
びを彼等は心底感じていた。キースはスト−ンズの"Midnight Rambler"でジョン・
リ−のあの引きずるようなブギのリフを使っているし、Ramblerはブルーズ・フリー
クのキーワードだ。すっかりスライド・ギターに貫禄がついた美しいボニ−・レイ
ットは「ジョン・リ−のギターのサウンドはわたしが感じる最もエロティックなギ
ターの音」と告白(?)している。そう、思い出せばジョン・リ−が来日した時の
前座がまだ有名ではなかったロバート・クレイだった。あの時、クレイはギャラな
しでもいいからジョン・リ−と日本に来たいと言ったとか。ジョン・リ−とプレイ
する価値、毎日彼のステージを見れる喜びはブルーズの深みにハマった者なら充分
に理解できるだろう。その時会場にはアフター・パンクのビートバンド・ブームで
「ブギの王様」というキャッチに惹かれて普段のブルーズ・ファンとは違う若者た
ちがかなりいたのだが、彼等はジョン・リ−のステージが始まると立ち上がり、ス
テージに押し寄せた・・が、ジョン・リ−はブギでノセてくれるだろうと期待した
彼等にクールなスロー・ブルーズを御見舞いした。その最初のグジャーン〜〜〜と
いうあのジョン・リ−のギターの音!あの音で彼は誰にも何にも左右されない「ジ
ョン・リー・フッカー」を高々と宣言していた。音楽的に決して器用とは言えない
彼は「これしかできない」のではなく、「誰にもできない」ものをもっていた-真夜
中に森の奥に迷い込んだようなダークな声、呪いをかけるようなモ−ン(唸り)、
孤独をより感じさせる例の足音、歪んだ感情を表わすような澱んだギターの音、そ
して、引きずるブギ。クレイには申し訳ないがジョン・リ−の演奏しか記憶に残ら
なかった。全部、何もかも最初の一音の「グジャ〜〜ン」でぶっ飛んでしまったの
だ。One & Onlyで、HipでCoolでそしてボニーが言うようにEroticだった。僕は自著
「ドッグ・ディ・ブルーズ」にジョン・リ−とのツー・ショットを載せたが、あれ
は来日の時機嫌がいいとは言えない彼がトイレから出てくるのを「待ち伏せ」して
カメラマンにシャッターを押してもらったものだ。なぜ「待ち伏せ」かと言うと「
オレのアルバムか、オレのTシャツ(自分でアメリカからもってきた素材と縫製の悪
い、すぐエリがテロテロになるもの)を買ったヤツにだけサインしてやる」なんて
言うものだから、とても「一緒に写真撮っていいですか?」とは言えなかった。そ
こでトイレから出てきた時なら気が抜けているだろうから・・ということで、咄嗟
に「一緒に写真撮っていいですか?」と言って撮ってもらった。ジョン・リ−が「
いい」と言ったかどうか・・・たぶん返事は聞かずに横に並んだと思う。あの来日
の頃は彼にとってはハードな時期だったと思う。レコード・デビューは1948年だが
、1940年代初期からデトロイトのストリート、クラブ、パーティで彼は肉体労働を
しながらブルーズを歌ってきた。ミシシッピーの家を出たのは10代の前半。ラフな
修羅場を何度もタフにくぐりぬけ、女をフックし、金の匂いには鋭く、契約を無視
し偽名で何度もアルバムを出す違法行為もなんのそのだ。ブルーズそのものを生き
抜いてきた男だ。ヒットが出てつかの間の享楽もつかんだが、旅から旅へのハード
な毎日が大半だっただろう。60年代イギリスでストーンズやアニマルズの連中に慕
われ、大歓迎を受けたときは「王様になったような気分だった」とその嬉しさを語
っているが、ウエストコーストのロックバンド「キャンド・ヒート」とはバッドな
アシッド・テストのごとき怠慢なブギを延々と録音し不評を買ったが、彼にとって
は100枚以上のアルバムを出した中のたった1枚に過ぎない・・・・「憶えていない
」とシラを切るかも知れない。その時々彼は不器用な自分と向き合い、自分をなん
とか時代にのせて生き延びてきた。そんな中でも日本に来た頃はパッとしていない
時期だったため、彼はわざわざTシャツをもってきて行商のようなことをしなければ
ならなかったし、気持ちもセコくなっていたのだろう。しかし、彼は消えずに80年
代を生き延びグラミーを獲得した。その時74才。盆栽とゲートボールなど見向きも
せず、「いま興味のあることは?」とのインタビューに「女と車・・・」と答えた
。この答に1.アホ 2.カッコいい 3.恥ずかしい 4.エロい 5.実の爺さんでなく
て良かった 6.こんな爺さんが欲しい 7.つき合いたい 8.カラクリTVの御長寿に
出てほしい・・あなたはどれを選ぶか?僕は6.です。Everybody,Don't forget
JLH's Boogie!
(Could you see Mori on TV)
去る7/7の真夜中「きみはテレビの中のMoriを観たか?」不肖、私も出ておりました
が・・これは6/2の日比谷野音の”tribute to Jimi Hendrix”のコンサ−トの模様
がOn Airされたもの。私たちの他、Char,鈴木茂などが出演したが、あのアル・ディ
メオラは何だ!?”tribute to Jimi Hendrix”というコンサートにもかかわらず
1曲もヘンドリックスの曲はなかった。翌日は大阪城野音でやったのだが、大阪では
ディメオラに”Go Home!”のブーイングも出たそうだ。当たり前といえば当たり前
。”tribute to Jimi Hendrix”という看板で来ている観客に対して彼は、また主催
者はどう考えているのか?あんなことなら最初に出た樹音くん(歌手のリリィさん
の息子さんだそうです)にもっと演奏時間をあげた方が良かった。しかし、東京の
お客さんたちは”tribute to Jimi Hendrix”なんて看板どうでも良かったのかな?
アル・ディメオラでえらい盛り上がっていた。確かにギターは上手かった。でも私
は何も感じなかった。私の歌はさておき、主役モリは一番ヘンドリックスを愛して
いる、いい音してた。為ちゃん、大西、テルオはリハでは「だいじょうぶか?」だ
ったが本番はバリバリ。マリ(金子)はいつもバリバリですが、歌詞を間違えたと
ころまでOn Airを許す度胸と器はすでにジョン・リ−の域なのか?。それもすべて
金子である・・と。深読みか?
(The New Orleans Typhoon Is Coming Again)
7/16-7/21再びワイルド・マグノリアスが”ブルーノート”にやってくるので、暑さ
ついでに是非一度。そして、同志、山岸潤史のインディアン化がどのくらい進んだ
か夏休みの観察。前回ヘンリー・バトラーと山岸が来日した時は、ポール・ジャク
ソンなども駆けつけJirokichiでムンムンのギグをやったが、今回も山岸から「ホト
ケ、またギグ頼むでぇ〜」と言われたので、またや・り・ま・す。7/21(土)真夜
中12時半か1時くらいからJirokichiにて。予定ですから変更もありですが、変更が
早めに解ればtRICK bAG tRIBEのみなさんにはメールします。カンパ・チャージは一
口1000円(何口でも可)です。tRICK bAGのメンバーに僕も久しぶりに会えそう?
(Schedule)
7/13-15大阪/Nest Saloon(06-6211-8675)塩次伸二3Days(13日ホトケ14日森園、金
子がゲスト)
7/20京都/拾得(075-841-1691 )塩次伸二セッション(ホトケがゲスト)
7/25目黒/Blues Alley(5496−4381)tRICK bAG(-1)
7/28群馬伊勢崎市/Kenny's cafe(0270-22-1077)ホトケと森園のHep Cats
7/29高円寺Jirokichi(3339−2727)tRICK bAG(-1)
7/31船橋「月」(0474-24-0706)ホトケ、若手ブルーズバンドをしごく!シリーズ
vol.2
8/4水戸Blue moods(029-231-8955)/Hep Cats 8/23高円寺Jirokichi/tRICK bAG
8/28大阪Nest Saloon 好評のシリーズTalkin Blues Train(ホトケwith 塩次伸二)
thank you for lovin' tb
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