MY NOTES > My Feeling For The Blues > No.06




ブルーズ100周年記念映画 "THE BLUES Movie Project" その1

いよいよ8/28より、マーティン・スコセッシ総監督の6本のブルーズ・ム−ヴィ"THE BLUES Movie Project"が順次、劇場公開される。実は全部で7本あるのだが、その中の1本"Piano Blues"だけは監督であるクリント・イーストウッドの意向で劇場公開されない。ギター・ブルーズばかり脚光を浴びる日本でぜひ劇場公開して欲しい作品だったのだが、残念だ。しかし、8/15(日)10時からWowWowでOn Airされるということなので、必ずチェックして観ていただきたい。私は全7本をアメリカにいる山岸からかなり前にDVDでプレゼントされ、また日本での試写会にも呼んでいただいたが、やはり映画館で観た方がいい。ブルーズのフィルムがこんなに一挙に公開されることは、恐らくこれから100年はないと思うので、この機会にみなさんも映画館に出かけていただきたい。そこで、この素晴らしい6本の映画を観る時の参考に、このコンテンツで1本づつ紹介したいと思う。ストーリーのようなものは書いてしまうと、映画を観る楽しみが減ってしまうので、なるべく書かないでおく。そこに登場するブルーズマンのこと、その時代背景やブルーズに関する情報や知識などを中心に書いてみたいと思う。

「Soul Of A Man/ソウル・オブ・ア・マン」
ヴィム・ヴェンダース監督ヴィム・ヴェンダース監督と言えば数年前、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」でキュ−バ音楽を取り上げ、大ヒットしたことが記憶に新しい。私のようにあの映画でキューバ音楽に急接近した人も多いと思う。その「ブエナ・ビスタ」で音楽を担当したライ・クーダーは、キューバ音楽だけでなく、ハワイ、メキシコ、沖縄など世界の音楽を発掘する名人だが、実は彼の音楽のルーツはブルーズとR&Bだ。ヴェンダースの映画では何本も音楽を担当しているライだが、私が好きなのは名作「パリ・テキサス」だ。荒涼とした地を主人公が彷徨う最初のシーンとバックに流れてくる、ライの奏でるスライド・ギターの悲しく、重い音がとてもマッチした、印象に残る作品だった。実は全編に流れていたあのスライド・ギターのメロディは、今回の映画「ソウル・オブ・ア・マン」に登場する重要なミュージシャン、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの名曲"Dark Was The Night"から発想を得たものだった。
そして、その"Dark Was The Night"が、1977年NASAの宇宙探索船「ボイジャー」に載せられ宇宙に向けて放たれた話から「ソウル・オブ・ア・マン」は始まる。この「ボイジャー」の話は本当で、どういう基準で誰が選んだのかは知らないが、いろんなジャンルの音楽が何曲か(確かチャック・ベリーの曲もあったと思う)選ばれて積み込まれたという話を私も昔聞いたことがあった。どういう目的なのかもよくわからないが、地球が滅んだ後にどこかの宇宙人に素晴らしい地球の音楽を聴いてもらいたいとでも思ったのか・・・とにかく、1927年に録音された"Dark Was TheNight"は、77年に宇宙の暗闇に向けて放たれたのだ。ちょっとロマンティックな話だ。しかし、この曲は選ばれる価値のあるアメリカ音楽史上、いや世界音楽史上、いやいや宇宙音楽史上の名曲のひとつだ。聴こえてくるのはブラインド・ウィリーの「唸り」とスライド・ギターの音と録音の古さによるノイズだけだが、私達の魂を喚起させ、様々な想像をかき立てさせる不思議な曲だ。この文の最後にアルバムを紹介するので、死ぬまでに一度は聴くことをお薦めする。
そして、このブラインド・ウィリーが映画全体のナレーターという設定でストーリーは進む。この映画には、ブラインド・ウィリー・ジョンソン、スキップ・ジェイムズ、J.B.ルノアーという3人のミュージシャンがメインとして登場するが、ヴェンダースが格別に好きというこの3人はブルーズ界でも極めて個性的な3人だ。日本でブルーズ・ファンを自称する人でも、この3人を好きで、アルバムをたくさん持っているという人はあまりいないと思う。すごく有名なB.B.Kingやマディ・ウォーターズをメインとして取り上げないで、この3人を取り上げたところに、まずこの映画に託したヴェンダースの思いがある。う〜ん、ストーリーを言いたくなってしまうが、がまん、がまん。では、まず、このブラインド・ウィリー・ジョンソンというミュージシャンについてちょっとした予習をしょう。
「Blind Willie Johnson/ブラインド・ウィリー・ジョンソン」
ブラインド・ウィリーは1897年のはじめにテキサスで生まれた。ブルーズの世界に足を踏み入れて、時代を遡り20.30年代に辿り着くと、皆さんはブラインド・ウィリーと同じようにブラインドという名のブルーズマンが多いことに気づくはずだ。ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ブレイク、ブラインド・ウィリー・マクテル、ブラインド・ボーイ・フラー・・・。御存知の方も多いと思うが、ブラインド(Blind)とは盲目のことだ。これは昔の黒人が貧しく食料事情、栄養状態が悪く、妊婦が栄養を摂取できなかったために盲目の子供がたくさん生まれたという説もあるし、子供に目の治療を充分に受けさせるだけの金がなかったからだという話もある。そして、音楽は、そういう盲目の黒人の子供たちが金を得て生きていくための数少ない手段のひとつだった。ブラインド・ウィリーは5才の時、父と夫婦喧嘩をしていた継母が投げつけた洗剤で視力を失ってしまった(浮気した父に逆上した継母が故意にブラインド・ウィリーに洗剤を浴びせたという説もある)。彼の初レコーディング・セッションは1927年に行われている。1927年と言われてもピンと来ないと思うだろうが、日本の年号だと昭和2年。政治的には日本の関東軍が中国に侵略し、1928年には蒋介石の中国統一を阻止する「済南事件」、31年には「満州事変」を起し満州を占領し、次第に第2次世界大戦へ突入していく時代だ。文化面ではラジオ放送が始まり、1928年(昭和3年)にはコロンビアとビクターの2大外資レコード会社が、日本で初の録音を開始している。この頃、アメリカは禁酒法の時代でシカゴではあのアル・カポネが暗躍し、29年には株の暴落で大恐慌が起き、以後34年頃まで不況が続いた。その不況は最終的に最下層の黒人たちにいちばん厳しく襲いかかり、彼等はひどい貧困に苦しんだ。ブラインド・ウィリーのレコーディングが1930年で途絶えたのもこの大恐慌と無関係ではない。
ところで、ブラインドと名のつくブルーズマンが多いと言ったが、ブラインド・ウィリーはブルーズマンではない。彼は「エヴァンジェリスト」と呼ばれるギターの弾き語りで、ゴスペル、スピリチュアルといった信仰の歌を歌いながら布教活動するミュージシャンだった。幼い頃から説教師になるのが夢だった彼は、小さい頃から熱心に教会に通った。もちろん教会でも歌ったが、彼の生活の主な糧は路上で歌って貰うチップだった。たった1枚だけ残っている彼の写真は、ネックの先に空き缶をつるしたギターを抱えているものだが、彼はその空き缶にチップを入れて貰っていた。その写真の美しく、聡明な顔だちの彼を見ると、しっかりした意志を持って神のために歌って生きたその姿を想い描くことができる。
しかし、なぜゴスペルを歌った彼がブルーズの話に出てくるのか?というと、そもそも19世紀の後半に生まれたと言われるゴスペルとブルーズは、別個に形作られたものではなく、互いに音楽的な影響を与えながら発展していったのだ。ブルーズの中にゴスペルの要素もあれば、ゴスペルの中にブルーズの要素もあり、リズムやメロディが同じようなものはたくさんある。それは今回の映画6本を観てもらえれば、わかると思う。ブラインド・ウィリーについて言えば、とくにその素晴らしいボトルネック・ギターがブルーズ界の後進たちに影響を与えたことが大きい。ライ・クーダーだけでなく、ボトルネック・ギターをやろうと志した人は必ず一度はブラインド・ウィリーと出会うことになる。では、ゴスペルとブルーズの決定的な違いは何かと言えば、それは歌詞だ。歌われている内容が、ブルーズはほとんど恋愛や失恋、金やセックスという日常の生活(俗)のことだが、ゴスペルは神、信仰(聖)のことだ。しかし、一般的にはブルーズ・シンガーとゴスペル・シンガーと分けられているが、サン・ハウスようにブルーズとゴスペルを両方歌った人もいれば、R&Rのスター、リトル・リチャ−ドのようにR&Rの世界とゴスペルの世界を何度も行き来している人もいる。教会や宗派によってはブルーズを歌うことを厳しく禁じているところもあるし、ブルーズなんぞ絶対に歌わないというゴスペル・シンガーもたくさんいる。しかし、ブルーズとゴスペルの両方を歌っても許される1部のバプティスト派の教会もある。ゴスペルの話は長くなるので、またいつかしたいと思う。また、ゴスペル・シンガーと看板を出していても必ずしも聖なる生き方をしているとは限らない。日本にゴスペル教室と銘打って、洗礼も受けず信仰もないのにゴスペルの指導をし金儲けをしている輩がいることをみなさんも御存知と思うが、アメリカにもゴスペルを金儲けの手段にしている者や、聖職者なのにピストルぶっぱなしたり、色恋沙汰で事件を起す神父さんもいる。私はと言えば、「ホトケ」という綽名なのにこれといった信仰を持たず、日々の生活は俗の極みだが、困るとすぐ神頼みだ。小さい頃は親に無理矢理行かされていた教会に渡すお布施という寄付?(10円ほど)を自分の懐に入れ、帰りに大好きだった森永ミルク・キャラメルを買っていた。まあ、家が禅宗なのに日曜教会に行かせていた親も親だが・・。また、大学受験の時にはいくつかの神社で合格祈願したし、飛行機が落ちそうになった時も脂汗、冷汗流して、心の中のありとあらゆる神に祈った祈った祈った。毎年、年の初めには健康祈願し、図々しくも大願成就を祈る調子のいい私だ。また、何を御願いしたのか覚えてないほどベロベロに酔っぱらって、初詣に行ったこともあるバチ当りだ。かっては夜の飲み屋街で「悪魔」と呼び捨てられたこともある。それでも、ひとつ言い訳させてもらえるなら、こんな私でも自分の中に神をもっている。俗なる自分が多すぎるが、少しは聖なる心ももっている。ほとんどの人間は「聖」と「俗」の間で揺れ動きながら、日常を暮していると私は思っている。「ホトケ」という綽名を使って新興宗教を興してひと儲けしょうという話が、飲み屋で盛り上がったこともあるが、意気地と人望がないのでいまだに実現には至っていない。まあ、アホな私のことはどうでもいい、ブラインド・ウィリーに話を戻そう。ブラインド・ウィリーは、ゴスペルを金儲けにする俗物ではなかった。彼は貧しくも一生信仰の道を逸れることなく、全身全霊を神に捧げ歌った人だ。彼はまさに「清貧」の人だった。コロンビア・レコードから発表された彼のアルバムは当時の黒人ミュージシャンとしてはトップの売り上げを記録した。彼がどれほどの金を受け取ったのかわからないが、彼が裕福だったという記載はどこにも残っていない。結局4年ほどの間に30曲を残したが、彼は終生貧しかったという。そして、1947年に家が火事になり、その後も水で湿った新聞紙の上(彼と彼の妻、アンジェリーナは新聞紙を積んでベッドにしていた)に寝ていて肺炎をひき起し亡くなったという説とマラリアで死んだという説がある。彼が運びこまれた病院は彼が黒人で盲目であるということで治療をしなかったという。
彼の音楽の特徴のひとつは従来のゴスペルだけでなく、聖書の話とその時代の出来事などを合わせて自作の曲を作ったこと、そして不平等、人種差別を糾弾した曲、アメリカ政府を批判した曲まで作ったことだ。1920年代後半という時代と彼が黒人であったことを考えると、彼が歌った「ほんとうの事」はかなり急進的なことだった。彼は強い信仰の心を礎にして、目の見える人間よりももっと物事をしっかりと見て理解し、真実を全身全霊で歌った人だった。
さて、映画に戻ると、ブラインド・ウィリーのナレーションによって次に登場するのがスキップ・ジェイムズだ。
「Skip James/スキップ・ジェイムズ」
スキップ・ジェイムズことニ−ヒミイア・ジェイムズ(Nehemiah James)は先のブラインド・ウィリーとほぼ同じくらい1903年に、ミシシッピー、ベントニアに伝道師の子として生まれている。レコーディングはブラインド・ウィリーより少し遅く1931年。26曲レコーディングして受け取った金額は40ドルだったと本人が言っているから、ブラインド・ウィリーが手にした金もそんなものだったのだろう。しかも、スキップのレコードが発表された31年は、前述した大恐慌の影響で不況だったためレコードは売れなかった。その後しばらくブルーズマンとして活動していたが生活できず、落胆した彼は故郷ミシシッピーに戻った。そして、故郷で父と共に教会の牧師として働いたが、それだけでは食べていくことはできず、農夫として畑仕事をせざるを得なかった。彼はブルーズマンとしてはほぼリタイアしてしまった。そして、20年ほどの歳月が過ぎた。
ところが、1964年にブルース研究家たちによって、病気で入院中だったスキップは見つけられ再びブルーズマンとして音楽シーンに登場することになる。もう60才を過ぎていた。1960年代初期に消息がなくなっていた20.30年代のブルーズマンが、ブルース研究家や愛好家によって探されたことをブルーズマンの「再発見」と呼んでいる。これについては後述する。
若き日に売れずにずっと苦労した為か、再発見されたスキップは金にはうるさく、気難しい男だったらしい。しかし、才能がありながら日の目を見ずに、20年間も忘れ去られ、苦労を重ねてきた人間の性格が歪むのは仕方ないことだろう。だが、20年間ほとんど音楽活動していなかったのに、再発見されて約1ケ月後に登場したニューポートのフェスティバルで、彼は伝説になるほどの感動を観客に与えた。彼を天才と呼ぶ人達がいるほど彼は音楽的才能に恵まれていた。そして、彼自身もその才能を自負し、誇りも高かった。しかし、少し特異な音楽性により、多くのポピラリティは得られなかった。そういう現状と自負やプライドが、ぶつかり合ってそ彼の性格を複雑なものにしていたのかも知れない。しかし「再発見」されたブルーズマンたちの多くが、若き日に作った曲をほとんどそのまま演奏してライヴをこなしてしまうのとは違い、スキップは新しい曲を作り、過去の曲にも常に新しいアイデアを入れることを試みていた。
個性の塊のようなブルーズマンが多い中でも、彼のブルーズはとりわけ個性的だ。時にファルセットを混ぜたハイ・ピッチ、つまり高音で歌われる歌もまず個性的だが、ギターも普通のチューニングではなく、オープン・マイナー・チューニングされており、そこから奏でられるメロディ、オブリガード、和音などのサウンドは少し特異なものだ。昔、私はスキップのブルーズが、もの悲しく、不安気な、重い灰色の雲に埋められた空から、何かに追われて逃げまどう鳥の鳴き声のようだと思ったことがある。そもそも音楽を言葉で表現するのは無理だといつも思うが、中でも彼のようなブルーズを言葉にするのは本当に難しい。そこでいろんな人が彼のブルーズを形容した言葉をここに並べてみよう。「奇妙な」「独創的な」「無気味な」「深遠な」「奇抜な」「陰影のある」・・・イマジネーション豊かな人なら、これでスキップのブルーズがどんなブルーズか聴いてみたくなるはずだ。
そう言えば、彼の名前を少しは知らしめた1曲がある。それは1966年にエリック・クラプトンが在籍したロックバンド、「クリーム」がカヴァーしたことで有名になった"I'm So Glad"だ。ロックバンドである「クリーム」のカヴァーはでかい音量とせっかちなリズムでオリジナルの面影はほとんどない。1931年に録音されたスキップのオリジナルでは、スピード感あふれる素晴らしいフィンガー・ピッキングのギタ−と独特のメロディ感をもったソウルフルな歌が聴こえてくる。彼はピアノも弾くがそれもまた個性的なもので、ジャズのセロニアス・モンクのようだと言った人もいる。とにかく、ギターもピアノも音楽性の高いもので、オリジナリティが充満しており、定型にはまらずアバンギャルドな一面さえもっている。64年の再発見以降はフェスティバルやコーヒー・ハウスに出演し、ヨーロッパにも招かれたが、5年後の69年に癌でなくなった。66才だった。
「再発見/Rediscover」
ちょっと、さきほど出てきた「再発見」について説明しょう。アメリカの白人のフォークソング・ブームが50年代の終り頃から始まり、その一環として黒人ブルーズマンの歌も中流階級を中心とした白人の若者たちに流行りはじめた。その背景には物質的になり、商業主義的になっていくアメリカの風潮に反対する白人たちが、シンプルなアコースティックなサウンドで歌われる、あまり商業的でない素朴な、黒人のブルーズやフォーク、ワークソング、黒人霊歌などに憧れ、それをひとつの看板にしたということがあった。最初ブラウニ−・マギー&ソニー・テリー、ジョシュ・ホワイトといったブルーズマンたちがそういうフォーク・コンサートに出演していたが、一部の白人たちが20.30年代に残されたレコードを聴きあさり、「ところでこの頃録音した黒人ブルーズマンたちはどうなって、どこにいるんだろうか?」と思い始めた。そして、その白人の中のブルーズ研究家、愛好家といわれるフリークたちが全米を駆け巡り、かってのカントリー、デルタ・ブルーズマンたちを探し始めた。60年代初期に行われた、そういう埋もれていた黒人ブルーズマン探しを「再発見」と呼んでいる。そして、「再発見」されたのが、スキップ・ジェイムズ、サン・ハウス、ミシシッピー・ジョン・ハート、ライトニン・ホプキンス、ブッカ・ホワイトなどで、再発見された時、そのほとんどは肉体労働などをしながら普通の黒人として生活していた。だから、彼等が再発見後に相手にした聴衆は若い白人たちであり、黒人の前で歌うことはまずなかった。白人主催のコンサートに出演し、白人大学生などが集まるコーヒー・ハウスで歌い、ヨーロッパの白人のフェスティバルに出かけていった。そういう年老いたブルーズマンたちの晩年が、聴衆は異なったが、少なくとも自分の音楽を表現でき、それで生活でき、幸せなものであっただろうと私は思いたい。
ちなみに、60年代初めの黒人たちの音楽の主流はサム・クックやレイ・チャールズが登場して、すでにR&Bからソウルへ移行していくところだ。そして、ブルーズ自体もとっくにエレクトリックされたものだったわけだから、白人たちが作り出した「再発見」の流行は、黒人たちの文化とはまったく違うものだったことを覚えておいて欲しい。しかし、こういうフォーク・ブルーズ・ブームは60年代中後期に巻き起こる白人のブルーズ・ロック、ニュー・ロックのブームの種となり、いわゆるハードロックの基礎ともなった。
「J.B.Lenoir/J.B.ルノア−」
さて、いま一度映画に戻ると、3人目のブルーズマンとして登場するのがJ.B.ルノアーだ。ルノアーもスキップと同じミシシッピーの生まれだが、生まれたのはずっと後の1929年。畑仕事で一生を終える生活から逃げ出したいと考えていた彼は、15才の時にニューオリンズへ脱出。15才というと中学3年か高校1年!親から小遣い貰ってコンビニの前でたむろしているどこかの国の中高生とは自立心の強さが違う。彼はニユーオリンズで音楽的な素養を身につけ、20才の時に当時のブルーズのメッカだったシカゴへ向かった。そして、シカゴの工場で働きながら次第にブルーズ・シーンに入り込んでいったのだが、この時面倒を見てくれたのがマディ・ウォーターズのシカゴ・デビューの世話もした、心優しいブルーズマン、ビッグ・ビル・ブルーンジーだった。そして、1951年21才の時に初レコ−ディングのチャンスを得ているから、どちらかと言えばトントン拍子でシカゴのシーンを上がっていったわけだ。映画を観てもらえればわかるようにルノアーもビッグ・ビルと同じように心暖かい、優しい性格の人物だ。映画の中でも着ているゼブラ模様のジャケットがトレード・マークで、歌はスキップ・ジェイムズと同じように高音で歌う個性あるスタイルだ。実はブルーズを好きになり始めた頃、ブルーズマンの声はマディやハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカーのように少し低めで、ザラついたものなのだと勝手に決め込んでいた私は、初めてルノアーのハイ・ピッチな、柔らかい声を聴いたとき「女か?」と思った。しかし、ジャケットに写っているのは、丸い顔にヒゲを生やした、のんびりした目つきの黒人のおっさんだ。「このおっさんがこの声かい!?」と、突っ込みたくなるミス・マッチ。歌もギターもハープも上手いというわけではないが、その顔のようにゆったり、のんびりしたノリには格別な味わいがある。名は体を表わすというが、彼の場合は顔が音を表わしている。天気のいい昼下がりにビールを飲む時、何もしないでぼーっとしたい時に最適なダウンホーム・ブルーズだ。
ところがルノア−の曲名を見ていると"Korea Blues"と"I'm In Korea"と、2曲Korea(韓国)とつくタイトルがあり、「韓国でなんかあったんかいな・・」とその歌詞をチェックしてみると、朝鮮戦争を題材にした歌だった。しかも、内容が「アンクル・サムが、オレをここから追っ払おうとしてるという疑いをオレはもってるんだ。奴はオレに"オマエが韓国で必要なんだ"と、言うんだ。」(Korea Blues)と言うものだった。アンクル・サムとはアメリカ国家の別称(頭文字が同じU.S)だから、要するにアメリカ政府が韓国に戦争に行けと言っている(でも、本人は行きたくない)という戦争拒否のブルーズだった。また、"Eisenhower Blues"という当時の大統領、アイゼンハワーを揶揄し、自分達の生活の苦しさを歌ったブルーズもある。この曲は政府からの圧力で発売中止になった。他にも映画の中でカサンドラ・ウィルソンが歌うベトナム戦争を歌った「ベトナム・ブルーズ」、黒人として生まれた辛苦を歌った「ボーン・デッド」、人種差別を歌った「アラバマ」など、彼は政治、社会のことを積極的に取り上げ平等や反戦を歌ったブルーズマンだった。ブルーズ界でこういう社会派としてまず名前が上がるのは、先のブラインド・ウィリー・ジョンソンとこのルノアーだ。ゆったりした芸風でありながら、歌っていることは同胞の気持ちを代弁する政治、社会的なことだったわけだ。もちろん、ラヴ・ソングもダンス・ナンバーもあるが、どれもハート・ウォームな作風でなごんでしまう。
しかし、今回、私にとってこの映画のハイライトは60年代のルノアーの実写フィルムが登場したところだった。これにはすっかり興奮してしまった。これはスウェーデンからシカゴに来ていた美術学校生だったカップル(シーバーグ夫妻)が、たまたま聴いたルノアーに感動し、ルノアーの素晴らしさを母国の人々に知ってもらいたいとフィルムに収めたものだった。そして、彼らは何とかスウェーデンにルノアーを呼んでライヴができないものかと、2回に渡ってフィルムを撮り母国のTV局に放映を依頼したが、その映像の稚拙さなどを理由に放映はされなかった。それからずっとこのフィルムはシーバーグ夫妻が保存したままになっていた。そして、40年も経って、そういうフィルムがあるらしいと聞いたヴェンダースたちが、ジョージア州に住む夫妻を探しあて、今回の映画に挿入したのだった。そのカップルの熱意とヴェンダースたちの熱意がこの映画で実を結び、素晴らしい実写のJ.B.ルノア−を見せ、聴かせてくれたことに私は感謝したい。特に、大した金などないスウェーデンの若いカップルが、自分たちの感動をなんとか伝えたいと高いフィルムを買い、慣れないカメラをまわした姿を思い浮かべると涙ものだ。そして、そういうパワーをふたりに与えたルノアーのブルーズの素晴らしさを、まずこの映画を観て、そしてルノアーのアルバムを聴いてみなさんに知ってもらいたい。
この映画のタイトル"Soul Of A Man"は、いまから70年以上も前、1930年に作られたブラインド・ウィリー・ジョンソンの曲からつけられた。「誰か教えてくれないか、人間の魂って一体何なんだ?」と語るブラインド・ウィリーの歌声は、差別、戦争、貧困、平等などに対する自分の魂の有り様を、現在の私達に自問させているように聞こえる。ブルーズを知らなくても、何も身構えずに映画を観れば心に残るものがたくさんある作品だ。
「この映画に登場する現代のミュージシャンたち」
映画でこのブラインド・ウィリー役に扮しているのは、映画「オー・ブラザー」で偉大なブルーズマン、トミー・ジョンソンに扮したクリス・トーマス・キングだ。彼はヒップホップというサウンドの中で現在のブルーズを表現しょうとしているミュージシャンで私も注目しているが、その辺りを書くのは長くなるのでまたの機会にする。クリス・トーマス・キングに興味をもった方は彼の3枚のアルバム"21stCentury Blues"、"Dirty South Hip-Hop Blues"、そして最新の"Now Or Never"を探してください。J.B.ルノアーの"Vietnam Blues"を現在の自己の表現で見事に歌ってみせたカサンドラ・ウィルソンはやはりただ者ではないし、スキップ・ジェイムズの変則チューニングでボトルネックを弾くボニー・レイットはもう貫禄ものだ。ルー・リードも良かったし、ロス・ロボスも独特のアプローチをしている。他にT.ボーン・バーネット、アルヴィン・ヤングブラッド・ハート、ベック、ジョン・スペンサーなど。
この映画に関する参考アルバムです。
1.The Complete Blind Willie Johnson(ソニー・ミュージック SRCS 6705-6)/ブラインド・ウィリーの全曲がこの2枚組に収録されている。
2.The Complete Early Recordings Of Skip James(Yazoo 2009)/文字通り初期のスキップの曲を集めたアルバム
3.Blues From The Delta Skip James(Vanguard 79517-2)/再発見された後の60年代のスキップのアルバム。
4.Natural Man J.B Lenoir(ユニバーサル MVCM 22012)/チェス・チェッカー・レーベルの録音と、その前のパロット・レーベルのものも入ったアルバム。
5.Vietnam Blues J.B Lenoir(Evidence ECD26068-2)/60年代に録音されたルノアーの政治、社会ブルーズがたくさん入っているアルバム。
6.The Soul Of A Man オリジナル・サウンド・トラック(ソニー MHCP 83)/この映画のサウンド・トラック。映画のメインである3人、ブラインド・ウィリー、スキップ、ルノアー他、カサンドラ・ウィルソン、ボニー・レイット、ルー・リード、ジョン・メイオールなど3人のブルーズに関連したブルーズを歌うミュージシャンがずらりと入っている。
今回の"THE BLUES Movie Project"の総合的な案内は日活株式会社のHP(http://www.nikkatsu.com)を、また、映画「Soul Of A Man/ソウル・オブ・ア・マン」公開日程、時間、場所などについては以下の「ヴァージンシネマズ六本木ヒルズ」のサイトを訪ねてください。http://www.tohocinemas.co.jp/roppongi/

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