MY NOTES > My Feeling For The Blues > No.08




"THE BLUES Movie Project" その2
(The Road To Memphis(メンフィスへの道)/リチャード・ピアーズ監督)

監督のリチャード・ピアーズは、1969年に開催された60年代最大のロック・フェスティバル「ウッドストック」のドキュメンタリー映画「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」の撮影監督だった人だ。彼は大人の色香をふりまくキム・ベイシンガーと、いつも真面目顔のリチャード・ギアのふたりが主演のサスペンス映画「ノー・マーシー/非情の愛」とか、ウーピー・ゴールドバーグ主演の「ロング・ウォーク・ホーム」などを監督している。「ノー・マーシー/非情の愛」はニューオリンズが舞台だったことと、ベイシンガーのいい女ぶりしか記憶にないが、「ロング・ウォーク・ホーム」は有名な50年代アラバマの黒人のバス・ボイコット運動をテーマにしたヒューマンないい映画だった。

「メンフィス/ Memphisという街」
さて、映画のタイトルになっているテネシー州のメンフィスは、ブルーズとR&Bにとっては重要な街のひとつだ。現在、メンフィスの人口の半分以上がアフリカン・アメリカンだが、昔から南部の黒人たちにとってはシカゴよりもニューヨークよりも近いメンフィスは憧れの華の都、成功を求めて農園から脱出して目指す都会だった。メンフィスのすぐ西隣はミミシッピー川を挟んでアーカンソー州。そこにもウエスト・メンフィス、ヘレナと言ったブルーズマンが活躍した街があり、南に降りるとブルーズマンの宝庫、ミシシッピー州。そのミシシッピーでも素晴らしいデルタ・ブルーズマンたちが立ち寄り、生活したクラークスディルとはすぐ近くの距離。
ミシシッピーの東にはアラバマ、そして南にはルイジアナ、そのルイジアナをミシシッピー川に沿って下るとニュー・オリンズだ。
ちょっと話が逸れるが、今回のこの7本のブルーズ映画は、昨年「ブルーズ生誕100年」というアメリカの記念事業のひとつとして企画されたものだ。そうするとブルーズの起源は1903年か?ということになるが、いやいやブルーズはもっと以前からあった。では、何故「ブルーズ生誕100年」の起源を1903年に決めたかというと、このメンフィスにいたW.C.ハンディというコルネット奏者であり、作曲家でもあり、楽団のリーダーでもあったおっさんが、名もない黒人がギターひとつで演奏していた曲に感銘を受け「メンフィス・ブルーズ」という曲にし楽譜にし、著作権登録した年が1903年だったからだ。もちろん、これを決めたのはアメリカ政府。お上の仕業である。この数々の記念事業の恩恵に預かり、懐が少しあたたかくなったブルーズマンもいるが、中には「ふ〜ん、ブルーズ生誕100年なんて行事があったん?わしゃ、知らんでぇ。」というブルーズマンもいる。話を戻すと、それでW.C.ハンディというおっさんが「ブルースの父」と呼ばれ、メンフィスには「W.C.ハンディ公園」があり、そこにはおっさんの銅像が立っている。しかし、ひねくれ者の私に言わせれば「ブルースの父」はチャーリー・パットンかブラインド・レモンだ。W.C.ハンディがブルーズ界へ残したものなんてパットンやレモンに比べれば・・。
しかし、メンフィスから巣立ったブルーズマンは、B.B.キングはじめたくさんいるし、50年代のロックンロール時代、そして60年代のソウル時代もメンフィスは音楽的に重要な街であった。かのエルヴィス・プレスリーが育ち音楽を始めた街であり、60年代には「モータウン・レコード」と並んでソウルのレコード会社としてヒットを出し続けた「スタックス・レコード」があったところでもある。現在はブレスリーの家も、スタックス・レコードも観光名所になっている。キング・カーティスには「メンフィス・ソウル・シチュー」、チャック・ベリーには「メンフィス・テネシー」という曲があり、メンフィス・ミニーというブルーズ・ウーマンもいた。

「ビール・ストリート/Beale Street」
そして、そのメンフィスにある「ビール・ストリート/Beale Street」は、かって酒、ギャンブル、売春、そして音楽が混じり合った歓楽街だった。特に50年代はB.B.キング、ジュニア・パーカー、ボビー・ブランド、ハウリン・ウルフなど優れたブルーズマンが群雄割拠したブルーズのメッカだった。もちろん、そういう歓楽街につきもののギャングが横行し、中にはギャングが邪魔者をすぐ殺してしまうので裏では「棺桶」と呼ばれるクラブがあったほどだ。そういういかがわしいものが、政治の力によって一掃されてからビール・ストリートはさびれ、音楽も衰退してしまった。しかし、元来、夜に大人が楽しむ世界というのはいかがわしい場所にあるものであり、昼間の公園みたいに御清潔な場所にしてしまって客が来るわけがない。いまもB.B.キングのクラブはじめ多くのバー、クラブがあるが、かってほどの活況はない。映画の中で、ただの観光名所になっていくストリートの姿を車の窓から見るB.B.キングの表情は寂しそうだ。何故なら彼のB.B.という綽名は、まだ駆け出しの頃、出演していたラジオ局の連中から「ビール・ストリート・ボーイ」と呼ばれたことからつけられたものなのだ。そのB.B.が田舎からはじめてメンフィスに来た時の微笑ましい話は映画でたっぷり御覧ください。

「サン・レコード/SUN RECORDS」
そして、この誘惑の街、ビール・ストリートで、女性の嬌声を浴びていたアイク・ターナーなど黒人ミュージシャンにくっつき回っていたのが、若きエルビス・プレスリーだった。プア・ホワイト、貧しい白人家庭に生まれたエルビスの家の近くには黒人たちも住んでおり、彼は子供の頃から黒人教会を覗き、ブルースなど黒人音楽を愛好していた。だから、スターになった後、エルビスはこう語っている「ボクのやっていることなんて、黒人がずっと歌って演奏してきたことだよ」(リズム&ブルースの死/ネルソン・ジョージより)と。そのプレスリーをレコード・デビューさせたのが映画にも登場するサン・レコードのサム・フィリップスだ。
また、映画に出てくるアイク・ターナーの"Rocket 88"は51年、フィリップスによって録音されチェス・レコードからリリースされ、夏にはR&Bチャートの1位に輝いた。そして、1952年にフィリップスは「サン・レコード」を創設した。その後、サン・レコードはハウリン・ウルフ、ジュニア・パーカー、ジェイムズ・コットンなどをレコーディングし、ブルーズマンたちにとっては成功するための足掛かりとなるメンフィスのローカル・レーベルとなった。当時、白人が黒人ブルーズマンをレコーディングし、それをビジネスにすることがどういうことだったのかは、映画の中でのアイク・ターナーとフィリップスのやりとりを観てください。
創設間もないサン・レコードのミュージシャンたちのブルーズを聴きたい方には、コンピレーション・アルバム"A SUN RECORDS COLLECTION/VARIOUS ARTISTS"(RHINO/SUN R270962)をお薦めする。
また、エルヴィスがサン・レコードに残したシングルのコレクション”エルヴィス・アット・サン”(RCA BVCM-31120 )も一度聴いてもらいたい。エルヴィスがどれほどブルーズ、R&Bなど黒人音楽をルーツにした歌手だったかがわかる1枚です。

「WDIA」
映画に出てくる「WDIA」は1948年に創設されたメンフィスのラジオ局で、最初主にカントリーを流す局だったが、近くのナッシュビルの強力なカントリーの放送局に勝てず、ブルーズやR&Bに方向転換した。その後、次第に出力を増していき、やがてアメリカの南部の黒人放送局のマザー・ステーション的存在となった。
若き日のB.B.キングも参加した「アマチュア・ナイト」というコンテスト番組が売り物のひとつで、そのコンテストの司会をやり、後にDJとして自分の番組をもって活躍したのがルーファス・トーマスだ。ルーファスは60年代に同じメンフィスのソウルの名門レーベルとなった「スタックス・レコード」から"Walkin' The Dog"(この曲はローリング・ストーンズが1st.アルバムでカヴァ−している)、"FunkyChicken"などダンサブルなナンバーでヒットを連発したシンガーだ。私はかって赤坂のクラブ「ムゲン」でルーファスのショーを観たが、トレードマークの半ズボンにギンギンのラメ入りシャツ、その上に長いマントを羽織り登場したルーファスのステージはダンサブルでファンキー、無条件に楽しいものだった。ハゲ頭で鼻の下がちょっと長く、大きな目をキョロキョロさせながらニワトリの声色とニワトリを模したダンスを披露して歌われる"ファンキー・チキン"などのファンキー・シリーズに「ムゲン」のダンスフロアーが汗ダクの客たちで揺れていたのを覚えている。
アフロ・アメリカンとしての主張を交えながら話す彼の姿が出てくるが、まさに彼はメンフィス黒人音楽シーンの御意見番的存在だった。彼の愛娘は同じスタックスから"Gee With"などのヒットを出したシンガー、カーラ・トーマス。
多くの南部の黒人ミュージシャンたちがこの「WDIA」から流れる音楽を聴き、成功への憧れを持ったわけだが、もうひとつここから流された音楽はレコードを買えない貧しい彼らに豊かな音楽的知識を与える役割も担っていた。ラジオにかじりつきながら聴こえてくる音楽をコピーしたというミュージシャンも多い。そして、このステーションのパワーはエルヴィス・プレスリーのような白人の若者をも巻き込んだ。若い音楽好きの白人たちは白人ステーションよりもこの黒人ステーションから流れてくるブルーズやR&Bのヒップなグルーヴを率直に感じ取っていった。そして、そこからロックン・ロール(黒人たちはR&Bと呼んでいた)と呼ばれる音楽が誕生した。だから、50年代アメリカのポピュラー・ミュージック界にとってラジオは音楽をプロモーションする際の最も有効な媒体となったのだ。そして、レコード会社が自社のミュージシャンの新譜を何回もラジオから流してもらうために、DJに賄賂を渡す「ペイオラ」という賄賂事件まで起きてしまった。現在、ラジオは50年代ほど重要な存在ではなくなったが、アメリカへ行くと黒人ミュージシャンだけでなく一般の人達がラジオをとても愛聴しているのがよくわかる。そして、ラジオ局側も日本のようにどのステーションもその時のビッグ・ヒットばかり流しているのではなく、それぞれ局ごとに個性をはっきり打ち出しているのがよくわかるし、聴いていても楽しい。ステーションが増えただけの日本のラジオ局の方々も考えてもらいたい。

「出演ミュージシャンについて」
ル−ファス・ト−マスについては前述したが、他にもこの映画には素晴らしい功績を残してきたミュージシャンたちが登場する。

◯ボビー・ラッシュ
映画は南部のチトリン・サーキット(この言葉は後で説明します)をバリバリの現役で回っているボビー・ラッシュが、自分のツアー・バスでメンフィスに向かうところから始まる。ボビーは1940年生まれだからもう64才だが、いや〜元気、元気。
ツアーで街について、楽器をセッティングして、着替えて、本番やって、ギャラを受け取って、またバスに乗って次の街へ行く・・・というボビー・ラッシュのツアー・ライフがこの映画のひとつの核にもなっている。こういうブルーズマンのツアーの様子を撮ったフィルムというのは、いままで有りそうでなかった。しかも、コテコテの黒人クラブを回っていくコッテコッテの現役ブルーズマンだ。まあ、私も最近は車で移動のツアーはやっていないが、かってウエストロードやブルー・ヘヴンの頃は、このボビーと変らないような連日連夜のツアーをやっていた。でも、移動する距離がアメリカと日本じゃ話にならない。ニューオリンズにいる山岸に聞いてもニューオリンズ〜サンフランシスコ、ニューオリンズ〜シカゴを車移動なんてザラにあるらしいから、やっぱりアメリカのツアーはハードだ。それを60半ばのおっさんがやっているのだから頭が下がる。日本のサラリーマンなら定年退職して盆栽でもいじくって、孫と散歩でもしているところだが、ボビーは若い女性ダンサーに大きなお尻を振らせて、「ヘイ!ブラザー、あんたも好きだろう?」と男の客に言って、そのお尻にマイクをもっていくパフォーマンスを汗だくでやっている。そういう「下ネタ」ブル−ズがボビーの得意ジャンルだが、こういう時に黒人のおっさんより、おばちゃんの方がキャーキャー喜んでいるのがおもろい。やっぱ、ヨン様よりボビー様だろう!そして、そういう下世話なムードもブルーズの重要なテイストのひとつだと覚えておいてほしい。バスに乗っている時はちょっと疲れた顔もするが、ステージに出たらガンガン行くボビー・ラッシュにバイアグラは要らない。日本では退職して「第2の人生」とか言うが、ボビーには「第1の人生」しかない。生涯現役、私もそれを目指している。2002年のライヴDVDとCDの2枚組"Live AtGround Zero"(Deep Rush DRDV 3001)を聴き、観れば、彼のムンムンとしたエロい世界が楽しめます。このエロい世界もブルーズの大切な要素です。「エロなくしてブルーズはない」と断言します。まあ、私が声高に断言しなくてもいいが、まあその世界が好きなんで・・はい。

チトリン・サーキット
-チトリンとはソウル・フードのひとつで、豚肉の小腸をスパイスをどっさり入れて煮込んだもの。まあ、モツ煮と思ってもらえばいい。このチトリンは黒人しか食べないので、白人レストランに行ってもメニューにはない。昔、白人が食べないで捨てたそういう内臓を黒人たちは工夫して自分たちのソウル・フードしてきたのだ。そこから派生して黒人のクラブを転々とツアーすることをチトリン・サーキットと呼ぶようになった。

◯B.B.King
現役の最高峰のブルーズマンであるB.B.キングは、この映画に出てくるミュージシャンの中で最も有名であり、世界的な視野でブルーズシーンの広がりに尽力してきた人でもある。しかし、そんなことを抜きにしても、今日まで築き上げてきた彼のブルーズは素晴らしいものであり、いまでも偏見なく新しい音楽との融合を目指す姿勢には頭が下がる。そのB.B.の音楽の礎は映画の中でもわかるようにメンフィスで作られたものだった。前述したアルバム"A SUN RECORDS COLLECTION"にも若き日の彼の演奏が記録されているが、まだ自分のスタイルが完成されていない、初々しいB.B.のプレイを聴くと大御所B.B.が少しは身近な人に思えるかも知れない。とくに若きブルーズ・ギター・フリークのみなさんにとっては。
映画の中で最後にB.B.を中心にリトル・ミルトン、アイク・ターナー、ロスコー・ゴードンが一堂に会してセッションするシーンは、黒人音楽を愛する者にとっては胸が熱くなるものだ。

◯リトル・ミルトン
リトル・ミルトンは多くのブルーズマン同様にB.B.に多大な影響を受けたブルーズマンであり、ギター・スタイルにははっきりその痕跡がある。しかし、歌に関してはこの映画であまり取り上げられなかったブルーズ・ヴォ−カルの宝、ボビー・ブランド(現役のブランドをもっとクローズ・アップしなかったことが、この映画への私の唯一の不満!)からの影響も強い。いまや大御所のミルトンも、B.B.と共演しているシーンを観ると、まだまだ若造に見えるのがおもしろい。現在はマラコ・レコードから安定したペースでアルバムを出しているが、私はチェス・レコード時代、そしてソウル寄りのブルーズを連発したスタックス時代が好きです。スタックスの"Blues'n Soul"とか"Waiting For Little Milton"は愛聴盤です。

◯アイク・ターナー
去年だったか、日本のアホな入国審査のおっさんにもう十年も前のドラッグ疑惑を持ち出され日本に入国できなかったアイク・ターナー。80年代にソロとしてヒットを出したティナ・ターナーは前妻で、かってはアイク&ティナ・ターナーとしてふたりで素晴らしいレヴュ−を見せてくれた。しかし、それ以前はメンフィス、セントルイスでメチャかっこいい男前の、しかも才能のあるミュージシャンとしてブイブイ言わせたアイクだ。「ロケット88」の大ヒットさせたミュージシャンとしてだけでなく、ソングライター、プロデューサー、アレンジャーとしても活躍したいわゆる50年代中西部のR&Bシーンのフイクサーだ。去年、日本に入国していれば、私はなんとか会って50年代の話を聞きたいと思っていたのに、まったく日本の税関はアホなことしてくれた。そう言えば前妻のティナも自分の自叙伝(それを元にしたつまらない映画「ティナ」もあった)で、ドラッグ中毒と女たらしのアイクにひどい目に合ったことばかり書いていたが、アイクがいなければティナはただの凡庸なR&B歌手でしかなかったと私は思う。少しはアイクの才能の恩恵を受けたことも感謝しろと言いたい。映画の中でも垣間見れるアームを使った「ギョ〜ン」サウンドのギターを私もちょっとマネしたことがあったが、やたらチューニングが狂うのでやめた。それだけでなくアグレッシヴで、鋭角的な彼のギターはすこぐ魅力的です。
初期の彼をとらえたアルバム"I'm Tore Up/IKE TURNER'S KING OF RHYTHM"なんか音も男前ブルーズ全開で、お薦めです。

◯ロスコー・ゴードン
私もよく歌っている名曲"Just Want A Little Bit"のオリジナルが、このロスコー・ゴードンだ。その曲でもわかるように、この人の曲にはどこかポップで、ファンキーな要素があり、私はブルーズを知った頃から大好きだった。 "Just Want A Little Bit"などが収録されたアルバム"No More Doggin'"が現在P-Vineレコードから発売されているので、是非聴いてもらいたい。ブルーズを聴き始めたばかりの人でも馴染める少しゆったりしたノリと、口ずさめるメロディは心をウキウキさせるものがあります。ずっとリタイヤーしていて2000年にカムバックして、もう一度これからという時に映画でも映し出されるように他界してしまった。ほんとに残念。
優しい人柄は映画でもよく出ているが、一度ライヴをちゃんと聴きたかった人だった。復帰後のアルバム第1弾だったのに、遺作になってしまった"Memphis Tennessee"(Stony Plain SPCD1267)を聴くとウルウルしてしまう私です。

他にも楽しい映像が満載されているこの映画がシリーズの中でいちばんおもろかったという仲間も多いです。さあ、後はここに書いたアルバムをちょっと予習して、テレビを捨てて映画館へ行こう!

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