今年の夏はライヴをあまりやらずどこかに旅をしょうと思っていたが、結局原稿を書くことが多くてどこにも行けなかった。原稿書きに煮詰まると寝転がって本を読むか、DVDを見るか、CDを聴くしか気分転換の方法を知らないので、ずっと家にいることになる。たまに新宿、渋谷へ出ると「おお、こんな店が出来てるやん」「若い娘はみんな腹出してるなぁ・・」「へぇーっ、こんな食いもんあるんや。ごっつうまいなぁ!」「やっぱ、街やなぁ・・」とキョロキョロしてしまう東京在住田舎者の私だ。それで、この夏は意外とたくさん本を読んだ。何でも聴く音楽と同じで本も何でも読んでしまう質なのだけど、以下がこの夏に読んだ、また読みかけの本。
◯The BLUES A Musical Journey(マーティン・スコセッシ監修、ピーター・ギュラルニック他著、奥田祐士訳、白夜書房刊)
◯アマニタ・パンセリナ(中島らも 集英社文庫)
◯Ray Charles(Sharon Bell Mathis Illustrated by George Ford Lee&Low Books)
◯殉教 (三島由紀夫 新潮社版)
◯白痴 (坂口安吾 新潮社版)
◯日本文化私観(坂口安吾エッセイ集 講談社文芸文庫)
◯人間の証明(森村誠一 角川文庫)
◯詳説 世界史研究(木村康彦 他著 山川出版社)
◯天声美語(美輪明宏 講談社)
◯放送禁止歌(森達也 著 デーブ・スペクター監修 解放出版社)「The BLUES A Musical
Journey」は今度公開されるブルーズ・ム−ヴィに関連した本で、ピーター・ギュラルニックはじめいろんなライターによるブルーズや黒人音楽、文化に関する濃い文章が満載されている読みごたえのある1冊だった。ひとつひとつの文章があまり長くないので、時間のある時に少しづつ読みたい人にお薦め。3800円とやや高い本だけど、それだけの価値は充分ある。
この夏に亡くなられた中島らもさんの「アマニタ・パンセリナ」は氏の体験も踏まえたドラッグと呼ばれているものに関するエッセイ集。中島らもさんには一度大坂の飲み屋で紹介されたことがある。しかし、実は彼の本の大ファンであることをその時言いそびれてしまった。「お父さんのバックドロップ」「ガダラの豚」「西方冗土」などいい本がたくさんある。その笑い、口惜しさ、悲しさ、逞しさなどがぐちゃぐちゃに混じった文章は生きていく強さを、押しつけることなく語っていて好きだ。
「Ray Charles」は洋書でアメリカの子供向けの本だ。日本にも子供向けの「野口英世物語」みたいなのがあるけど、あの類いです。絵がたくさんついていてわかりやすく、中学程度の英語で読めます。
三島の「殉教」と安吾の「白痴」は本屋の「夏休みの読書コーナー」に置いてあった。両方とも短篇集で電車の中で読むには最適のもの。三島は高校生の頃からその文章の美しさが好きで、よく読んでいるが、この「殉教」はまだ読みかけ。安吾の「白痴」は好きな日本の小説の中でマイ・ベスト10に入るものだ。もう3.4回は読んでいると思うし、家に1冊持っているのに何故かまた買ってしまった。大平洋戦争の終り頃が時代背景になっているせいか、終戦記念日近くになると思い出す1册。
「人間の証明」はテレビ・ドラマで現在やっているのをちょっと観て、こんな話だったかなぁ?と思い本棚を探したらあったので読み始めたら最後までいってしまった。登場人物も、ストーリーもテレビの方は現代風にアレンジしてあるのだろうが、先に原作を読んでいる者は頭に自分なりの映像を保管しているのでテレビを観て幻滅することも多い。ストーリーの鍵になっている西条八十の詩がいい。「詳説 世界史研究」は仕事のために資料調べで読んだもの。
美輪明宏氏の「天声美語」は図書館でパラパラと読んだら面白そうだったので借りてきた。
氏は日本の芸能界では個性ある自分の芸と確固たる美に対する見識ももっている数少ない方で、以前から一度氏の舞台を観たいと思っているが行かないままになっている。この本も氏の言いたい放題で面白かった。芸能界というが、日本のテレビなどは芸のない者ばかり出てくるのでうんざりする。タレントという呼び方もするが、英語のTalentは本来「才能のある人」という意味だ。しかし、日本のタレントは楽屋落ちの話にギャーギャー手を叩いて騒いでいる「無能の人」がほとんどで、ずっと見ていると腹が立ち、そのうち自分にもその無能が感染するから気をつけた方がいい。
「放送禁止歌」は是非みなさんに一度読んでもらいたい1冊。著者の森達也氏はドキュメンタリーの映像作家。99年にフジテレビ系で放映されたドキュメンタリー「放送禁止歌」を氏が手掛けた際の製作過程の記録と、その製作後、部落問題など日本における差別の実態と差別意識を自己のフィルターを通して問うた1冊だ。私もかって毎日放送ラジオで「大阪ブルーズ・スピリッツ」という番組でDJを4年半やっていた時に、放送禁止用語、放送禁止歌に何度かぶち当ったことがある。また、某雑誌にエッセイを寄稿した際にも差別用語として扱われ、変更を要請されたこともある。
例えば70年代初期、私が京都で音楽を始めた頃、日本語のロックで私を刺激した唯一のバンド「村八分」を番組でオン・エアする際に、まずそのバンド名でひっかかった。この「村八分」という言葉が差別用語なので放送禁止に抵触するかも知れないと言われて私は驚いた。何故ならこの固有名詞として使っている「村八分」に差別の意識などこれっぽっちもなかったからだ。結局、番組のディレクター、スタッフの尽力で放送されたが、曲の中にはヴォーカルのチャー坊が作った詞の中に放送禁止用語があるということでフェイド・アウトしなければならないものもあった。しかし、驚いたのは私がオン・エアするまで10年ほど関西のラジオ局からは「村八分」が一度も、1曲も放送されていなかったことだ。つまり、放送局による自主規制というやつだ。
この本にも書かれているように、「やっかいなこと」にならないように最初から放送しない。「臭いもの蓋」ということである。つまり、自由な表現を守らなければいけない団体が、自らその表現を狭めていることになる。それを改善するためには、この本の冒頭で監修デーブ・スペクター氏が書いているように「差別してはいけません」ではなくて「どうして差別はいけないのか」を探らないといけない。そして、私達は常に自分の差別意識について問うべきだ。このことについてはまた触れたいと思う。 |