享年91才、11月21日ロバート・ジュニア・ロックウッドが亡くなった。また偉大なブルーズ・マスターのひとりが去り、1本の大きな樹が切られた森のようにブルーズ・シーンは一層淋しくなってしまった。
ソロとしてだけでなく、数々の重要なアルバムにレコーディング・ギタリストとして参加した彼の業績はとても大きい。私が初めてロックウッドの名を気に留めたのも、サニーボーイ・ウィリアムスンの"Down And
Out Blues"というブルーズの塊のようなアルバムでだった。語るように歌うざらついたサニーボーイの歌声の後で洒落たコードワークと洗練されたフレーズのギターが星のように煌めいていた。とくにその中の"Cross
My Heart"は絶品。初めて聴いた時からアーシーでディープでありながらモダンな彩りのあるその曲は静かに私の胸の奥底に沈んで行った。そして、思った・・・この夕暮れのような寂し気な歌の後で流れ星のようなギターを弾いているのは誰だろう。それがロバート・ジュニア・ロックウッドという名前で、伝説のロバート・ジョンソンの義理の息子だということはすぐにわかったが、当時彼のアルバムはなかった。1曲だけ「RCAブルースの古典」というコンピレーション・アルバムに"Take
A Little Walk With Me"が収録されているだけだった。しかし、バック・ミュージシャンとしてはチェス・レコードのサニーボーイ、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャースなどかなり多くのセッションに参加していた。そしてそのどれもが実に巧みな職人芸のギターだった。彼はチェス・レコード黄金期の重要なスタジオ・ミュージシャンだったのだ。耳に残るが絶対に主役の邪魔にはならないそのギターは、他に類を見ない独創性に富んでいてひとつの「芸術」と言ってもいい。ソロ・アルバムは72年にリリースされ私はその翌年に入手した。デルマーク・レコードから発表されたその"Steady
Rollin' Man"と74年の初来日のライブ盤"Blues Live/Robert Jr. Lockwood&The Aces"(photo参照)の2枚はロックウッドの名前を決定的にした名盤だ。それからしばらくしてジャズ・レーベルのキャンディドから60年リリースのブルーズ・ピアニスト、オーティス・スパンとデュオ"Otis
Spann Is The Blues"を見つけた。一応スパン名義のアルバムになっているが、内容はまさに半分半分のデュオ・アルバムだ。ブルーズを知り尽くした名人ふたりが信じられないほど見事に絡み合っているこれも名盤で、私の最も好きなブルーズ・アルバムの1枚だ。
ロックウッドのギターは聴いていると川の流れのように自然なためにその高度なテクニックをあまり感じさせないが、かって日本の高名な伝統工芸の作者がこう言ったのを思い出す。「技というのはそれを作る過程で必要なものだが、最後に出来上がった時にはその技は作品から消えてなくなっていなければならない」-まさにロックウッドの技はそれだ。
そして1974年11月30日大阪厚生年金大ホールで初めて聴いたロックウッドのライブは忘れられない想い出だ。このコンサートは盛り上がって来た当時の日本のブルーズ・ムーブメントを受けて開催された第1回のブルース・フェスティバルだった。イギリスのブルーズ・ム−ヴメントから遅れること約10年、日本にもロックの大きなルーツ・ミュージックであるブルーズがいま偉大なブルーズマンたちによって演奏されようとしていた。会場は満杯で待ち焦がれる聴衆の熱気が充満していた。
最初に登場したのは盲目のスリーピー・ジョン・エステスとハミ−・ニクソンのデュオだった。ふたりを迎える聴衆の拍手は歓迎と期待と敬意にあふれたものだった。
スリーピー・ジョンは来日前年にデルマーク・レコードからの「スリーピー・ジョン・エステスの伝説」というアルバムが日本盤でもリリースされ、その切迫感のあるリアルなブルーズが好評だった。来日した時にはすでに70才のスリーピー・ジョンだったが、ギターを抱えて最初に発した一声はとんでもなくパワフルで、そしてソウルフルだった。演奏途中のMCはハミー・ニクソンが少し喋っただけで、スリーピー・ジョンは一言もなくサングラスをかけた顔は無表情でただ歌い続けるだけだった。しかし、それで充分だった。彼のディ−プなブルーズはまっすぐに、そして激しく私達の胸に届いてきた。
少し休憩があった後、美しいギターのイントロとともに舞台の緞帳が上がり「エイシズ」の三人(ルイス・マイヤーズg,vo,bluesharp/デイブ・マイヤーズb/フレッド・ビロウdr)をバックにギターを弾くロックウッドの姿が現れた。1曲目が終わった時点でこの夜のライブが素晴らしいものになるだろうことを私は確信した。ゆるぎないものが彼等の演奏にあった。驚いたのは彼等の演奏がすでにリリースされていたアルバム"Steady
Rollin' Man"とほとんど変らないことだった。同じメンバーだとは言え、タイトで太く時に軽快なリズム、4つの楽器の音量のバランスも楽器と歌の絡み方も本当に見事でスムーズだった。このアンサンプルなら私は何時間でも聴き続けられると思った。彼等より以前に来日していたB.B.キングのバンドはピアノもホーン・セクションも入っているゴージャスなものだったが、こういうギター2本のコンボでのバンド・ブルーズが披露されるのは日本では初めてだった。そして"Steady
Rollin'Man"とこの来日時の演奏を収録したアルバム"Blues Live/Robert Jr. Lockwood&The
Aces"は、これ以降日本のブルースバンドの大きな指標となった。実はこの時、私はこっそりカセットテープ・レコーダーで演奏を録音していた。そして、家に帰るなりいそいそとそのテープを聞き返してみた。ところがそこに録音されていたのは、録音していることをすっかり忘れた私の「イェーッ!」というかけ声と「キョーリョクやなぁ!レコードと一緒やんか!」というような興奮したでかい声と、めちゃめちゃ激しい自分の拍手の音がほとんどで、肝心のロックウッドは遥か彼方に聴こえるのみだった。
それから何度かロックウッドは来日したがいつもクオリティの高い演奏を披露してくれた。いつも難しそうな顔している彼だが、私が握手してもらった時は優しく微笑む好々爺だった。94年だったか・・。その時紹介してくれた人が私のことを「彼はブルーズ・シンガーで・・」と言った時に顔から火が出るほど私は恥ずかしかったのを思い出す。いま紹介されても恥ずかしいが・・・。
いまずっと"Blues Live/Robert Jr. Lockwood&The Aces"を聴きながらこれを書いていた。長い間気づかなかったが、興奮する日本の聴衆の熱い拍手と嬌声を受けて、ほんの少し入っている彼のMCの声がとても嬉しそうな感じがする。きっと嬉しかったんだと思う。ほぼリタイアしたような60年代後半から70年代に入り"Steady
Rollin'Man"でカムバックしてすぐの日本公演であんなに熱く迎えられ、それに対して彼もエイシズも素晴らしい演奏で応えられたのだから。そして、それ以後は格別華やかなところには出なかった彼だが、多くのミュージシャンに尊敬され世界中のブルーズ・ファンに愛され、ずっとブルーズをやりつづけられた人生は幸せなものだったのではないだろうか。かって彼はインタビューで「ブルーズは歴史であり、永遠に残るものだ」と語ったことがある。いま私は「ロックウッド、あなたは歴史であり、永遠に残るものだ」と言って彼を天国に見送りたい。さよならステディ・ローリンマン。
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